用語解説一覧

ひょうご伝説紀行に関連する用語解説一覧です。
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あ行

【万勝院】まんしょういん

 上郡町の富満高原(とどまこうげん)にある真言宗の寺院。正式には大通宝山富満寺(おおつぼさんとどまじ)万勝院という。富満寺万勝院は、奈良時代行基によって創建されたと伝えられるが、嘉吉の乱で荒廃し、その後赤松氏によって復興された。江戸時代には池田輝政によって6院33坊が造られて、富満寺と称したが、明治時代に5院が廃され、万勝院のみが残ったという。空海にもゆかりの寺とされる。境内裏手の山の斜面にボタン園が設けられ、牡丹寺と呼ばれる。

【万葉集の処女塚伝説】まんようしゅうのおとめづかでんせつ

 『万葉集』で、処女塚伝説に関連した歌を詠んでいる歌人、および歌は下記のとおり。

高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)の歌

  葦屋の 菟原処女の 八年児の 片生ひの時ゆ 振分髪に 髪たくまでに 並びゐる 家にも見えず 虚ゆふの 隠りてをれば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の誂ふ時 千沼壮士 菟原壮士の 伏せ屋焼く 進し競ひ 相結婚ひ しける時は 焼太刀の柄おし撚り 白檀弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向かひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく 倭文たまき 賤しき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも あふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 千沼壮士 その夜夢に見 取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地に伏し 牙喫みたけびて もころ男に 負けてはあらじと かき佩の 小劒取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 永き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 こなたかなたに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 哭泣きつるかも(巻9-1809)

反歌

葦屋の 菟原処女の 奥津城を 往き来と見れば 哭のみし泣かゆ(巻9-1810)

墓の上の 木の枝なびけり 聞きしごと 血沼壮士にし 依りにけらしも(巻9-1811)

田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌

  葦屋の処女の墓を過ぎしる時作れる歌一首併びに短歌 古の ますら壮士の 相競ひ 妻問しけむ 葦屋の 菟原処女の 奥津城を わが立ち見れば 永き世の 語にしつつ 後人の 偲びにせむと 玉ほこの 道の辺近く 磐構へ 作れる塚を 天雲の 退部の限 この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ 或人は 哭にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎ来し 処女らが 奥津城どころ 吾さへに 見れば悲しも 古思へば (巻9-1801)

反歌

古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥津城ぞこれ (巻9-1802)

語りつぐ からにもここだ 恋しきを 直目に見けむ 古壮士 (巻9-1803)

大伴家持(おおとものやかもち)の歌

処女墓の歌に追ひて同ふる一首併に短歌

古に ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継ぐ 血沼壮士 菟原壮士の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命も捨てて 相争ひに 妻問しける をとめらし 聞けば悲しき 春花の にほえさかえて 秋の葉の にほひに照れる 惜しき 身の壮すら 丈夫の 語いたはしみ 父母に 啓し別れて 家離り 海辺に出で立ち 朝暮に 満ち来る潮の八重波に なびく玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ 奥墓を ここと定めて 後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に しのひにせよと 黄楊小櫛 しか刺しけらし 生ひてなびけり (巻19-4211)

処女らが 後のしるしと 黄楊小櫛 更り生ひて なびきけらしも (巻19-4212)

【御出石神社】みいずしじんじゃ

 豊岡市出石町桐野にある式内社(しきないしゃ)。アメノヒボコと出石乙女が祭られている。出石乙女は『古事記』において、八種神宝(やくさのかんだから、アメノヒボコが新羅からもたらした宝物)を神とした「伊豆志之八前大神」の娘とされる。多くの神に求婚されたがこれを退けて、春山之霞壮士(はるやまのかすみおとこ)と結ばれるという伝説が語られている。

【三木城】みきじょう

 三木市上の丸町に所在する、室町時代〜江戸時代初期の平山城跡。

 中世の東播磨を支配した別所氏が、守護の赤松氏からこの地を与えられて築城した。戦国期には浦上氏、尼子氏、三好氏などの攻撃を受け、落城と回復を経験した。その後別所氏は勢力を拡大して自立していったが、毛利氏と結んで織田信長に背いたため、天正6(1578)年から2年に渡って織田方の羽柴秀吉による攻撃を受け、天正8(1580)年に落城。

 秀吉との戦いは「三木合戦」と呼ばれ、別所長治との間で激しい攻防戦があったが、特に補給路を断つ兵糧攻めは、俗に「三木の干殺し」と言われるほど悲惨なものだったという。この結果、長治は城兵の命と引き替えに切腹し、別所氏は滅びた。

 本来の城郭は現在の三木市街地部分も含むものであったが、本丸周辺だけが上の丸公園として残っており、別所長治の辞世「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」の歌碑が建てられている。

【御食国】みけつくに

 日本古代から平安時代まで、天皇や皇族の食物のうち、海水産物を中心とした副食物を献上した国の総称。

【皆河の千年家】みなごのせんねんや

 姫路市安富町皆河に所在する。正式な名称は古井家住宅。1967年重要文化財指定。千年家の名称は、安志藩の丸山政煕(まるやままさひろ)による『播州皆河邨千年家之記』(1836)が初出。それによると、秀吉が姫路城築城の際に、この家が無災の千年家と聞き、この家の垂木の一部を築城の材に用いたという伝承が残っている。

 入母屋造り、草葺(ぶ)き屋根の家屋で、正面7間(13.9m)、側面4間(8.1m)の規模をもつ。現在の建物は、1970年の修理工事を経て、建築当初の状況に復元(一部推定復元)されている。

 建築上は、畳敷きを全く念頭に置かない間取り寸法であること、正面の間取りが1室、背面の間取りが2室の3室構造となっていること(あるいは正面背面ともに1室の可能性もあるという)、土間と部屋の構造が同じであり、大黒柱をもつような上部構造ではないこと、柱間の寸法が不ぞろいであることなどから、室町時代後期ごろの建築と推定されている。

 神戸市北区の箱木家住宅(箱木千年家)と並び、日本でわずか二棟残された最古の中世民家であり、民家建築の歴史を知る上で極めて重要な建築である。

【源義経】みなもとのよしつね

 平安時代後期の武士(1159〜1189)。清和源氏、源義朝(みなもとのよしとも)の九男で、源頼朝、範頼の異母弟にあたる。『平治物語』、『平家物語』、『義経記』などにその生涯が語られるが、記録による裏付けができないものが多い。

 頼朝の挙兵とともに参戦し、源義仲追討、平氏追討などに顕著な活躍をしたが、しだいに頼朝と不和となり、平氏滅亡後、頼朝に無断で官位を得たことを契機として対立した。頼朝による追討を受けて、近畿から東北の平泉(岩手県南部)へ逃れ、一時は奥州藤原氏(藤原秀衡、ふじわらのひでひら)の庇護(ひご)を得たが、秀衡の死後、後を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は頼朝の圧力に抗しきれず、義経を襲撃して自刃させた(衣川の戦い)。

 英雄的な活躍と、その後の悲劇的終末から、物語を通じて多くの人の同情を呼び、「判官びいき」といった言葉を生んでいる。

【峰相記】みねあいき

 1348年ごろに著された中世前期の播磨地方の地誌。著者は不明である。播磨国峯相山鶏足寺(ぶしょうざんけいそくじ)に参詣した僧侶と、そこに住む老僧の問答形式で著されている。日本の仏教の教義にはじまり、播磨の霊場の縁起、各地の世情や地誌などが記されている。安倍晴明(あべのせいめい)と芦屋道満(あしやどうまん)の逸話、福泊築港、悪党蜂起の記述など、鎌倉時代末の播磨地域を知る上で重要な記録となっている。最古の写本は、太子町斑鳩寺(はんきゅうじ)に伝わる1511年の年記をもつもの。

【無動寺】むどうじ

 神戸市北区山田町福地にある真言宗の寺院。若王山(にゃくおうさん)と号する。現在の無動寺の位置には、かつて若王山福寺があったが、衰微して明治時代に廃寺となった。その福寺跡に、村の菩提寺であった無動寺が移転して現在に至っているという。寺伝によれば福寺は、聖徳太子が物部守屋(もののべのもりや)との戦いの勝利を念じて作らせた仏像を、本尊として創建されたという。その正確な創建年代は不明だが、現在無動寺に所蔵される仏像の製作年代から、平安時代後期には成立していたものと思われる。

 所蔵される、大日如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像の三尊仏、不動明王坐像、十一面観音立像は、いずれも平安時代後期の仏像として、国の重要文化財に指定されている。