用語解説一覧

ひょうご伝説紀行に関連する用語解説一覧です。
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【加古川】かこがわ

 兵庫県の南部を流れる一級河川。延長96km、流域面積1730平方キロメートルをはかる県下最大・最長の河川である。但馬・丹波・播磨の三国が接する丹波市青垣町の粟鹿山(あわがさん、標高962m)付近が源流で、途中小野市、加古川市などを流れ、加古川市と高砂市の境で播磨灘に注ぐ。

 加古川の水運は、古代から物流を担う経路であったと考えられ、特に日本海に注ぐ由良川水系へは峠を越えずに到達できることから、「加古川−由良川の道」とも呼ばれて、日本海側と瀬戸内側を結ぶ重要なルートとされている。

【伽耶院】がやいん

 三木市志染に所在する天台系寺院。元は修験宗(しゅげんしゅう)に属する。山号は大谷山。縁起によれば、大化元(645)年に、法道仙人が山中の清水から毘沙門天の像を得て、孝徳天皇の勅により伽藍(がらん)を造営したのが始まりとされるが、正確な創建時期は明らかではない。歴代天皇の勅願所として保護された。

 中世には、熊野詣でと修験道の隆盛を受けて栄え、全盛時には七堂伽藍130坊を有する大寺院となった。天正8(1580)年、羽柴秀吉による三木城攻めの際に兵火を受けて全山が焼失したが、その後、諸国大名の寄進などにより再建された。

 本堂は、慶長15(1610)年再建という伝もあるが、解体修理時の所見などから正保3(1646)年ごろの再建とされている。堂内に、本尊の毘沙門天立像を安置する。また多宝塔は正保5(1648)年に再建されたもので、ともに重要文化財に指定されている。

 このほか、鎮寺社として建てられた三坂明神社も、重要文化財に指定されている。

 本尊は木造毘沙門天立像。正確な年代は不明であるが、像の様式から平安時代後期〜末の作と考えられている。

【烏原古道】からすはらこどう

 現在の神戸市兵庫区と、北区山田町を結んでいた古街道。平清盛が丹生山(たんじょうさん)に参詣する際に通った道とも言われ、古代には重要な道路であったと考えられる。明治44年に刊行された『西摂大観』(仲彦三郎編)によれば、湊川、石井川沿いに烏原越えの道が示されているという。その経路の概略は、兵庫区から石井川沿いに菊水山の西を通り、小部、北五葉を抜け、長坂山の東を越えて山田、丹生神社に至るというものであったとされる。

 現在は神戸電鉄がこの道と重複しているほか、ダムの建設、ニュータウン開発などによって、多くの部分が消滅、通行不能、あるいは位置不明となってしまった。

【感状山城】かんじょうさんじょう

 相生市森にある室町時代の城跡。14世紀初めに赤松則祐が築城した。標高240mの感状山頂を中心として、梯郭(ていかく)式縄張をもつ山城である。嘉吉(かきつ)の乱(1441)で廃城となったが、15世紀後半に赤松義村が再興した。

 感状山城の名は、新田義貞の軍勢を50余日にわたり足止めをした功績により、赤松則祐が足利尊氏に感状を授かった事に由来する。中世山城の状態が良好に残されており、国指定史跡となっている。

【神奈備】かんなび(神南備とも表記する)

 古代、神が鎮座すると考えられた山。神奈備山。

【岩瀧寺】がんりゅうじ

 丹波市氷上町にある真言宗の寺院。寺伝によれば、弘仁年間(809〜823)に、嵯峨天皇が霊夢にもとづいて、空海をこの地に派し、伽藍(がらん)を整備させたという。16世紀の後半に、兵火によって全山を焼失し、その後領主の別所重治により再興。18世紀以降も、九鬼氏(くきし)らによって堂宇の再興がおこなわれたという。

 寺の背後をなす山地には、独鈷の滝、不二の滝と呼ばれる滝があり、特に紅葉の名所として知られる。

【北野天満神社】きたのてんまんじんじゃ

 神戸市中央区北野町にある天満神社。福原遷都に際して平清盛の命により、新都の鬼門鎮護のために京都の北野天満宮を勧請(かんじょう)して、社殿を造営したのがはじまりとされる。

 中世にはしばしば戦乱に巻き込まれ、湊川の戦いや、応仁の乱の際の兵庫津焼き打ちなどでも被害を受けたという。また織田信長による中国攻略の際には、毛利氏と結んだ荒木村重配下の花隈城に近かったため激戦に巻きこまれた。

 江戸時代以降は北野村の鎮守として崇敬された。明治時代になり、神戸港周辺の外国人居留地が返還されると、神戸在住の外国人が北野町付近に館を構えるようになり、現在の異人館街が形成された。

【ギフチョウ】ぎふちょう

 アゲハチョウ科に属するチョウ。年に一度、4月に現れ、その美しさから「春の女神」と称えられる。播磨地域では、幼虫はミヤコアオイ・ヒメカンアオイなどを食べて育つ。食草の関係から、播磨地域では、里山の雑木林が主な生息地となっていたが、開発による生息地の破壊と、雑木林の放置による荒廃で減少しつつある。環境省絶滅危惧種II類、兵庫県レッドデータブックBランク。

【行基】ぎょうき

 奈良時代の僧(668〜749)。河内国(かわちのくに)出身。父は百済系の渡来人であった。はじめ官大寺で修行したが、後に民間布教をおこなったため律令政府の弾圧を受ける。ため池や水路などのかんがい施設を整備しながら説教をおこない、広く民衆の支持を集めた。東大寺の大仏造営にも協力し、745年には大僧正となった。墓は奈良県生駒市の竹林寺にあり、1235年に金銅製の骨蔵器が発掘されたが、現在はその断片が残されるのみである。

【清盛塚】きよもりづか

 神戸市兵庫区にある、「平清盛の墓」と考えられてきた石製十三重の塔。弘安9(1286)年の年号が刻まれており、鎌倉時代、北条貞時が諸国を巡行した際に建てたと伝えられている。塔は、かつて現在よりも11m南にあり、古くから清盛の墓として信仰の対象となってきた。1923年に道路拡張のため現在地に移転した際、塔周辺の発掘調査が実施されたが、墓の跡は発見されなかったため、供養のための石塔であったと考えられている。

【空海】くうかい

 平安時代前期の僧(774〜835)。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(しごう)で知られる、真言宗の開祖。最澄(伝教大師)とともに、奈良仏教から平安仏教への、転換点に位置する。また書道家としても知られ、嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「三筆」と呼ばれる。

 空海は、讃岐国の豪族佐伯氏の子として、現在の香川県善通寺市に生まれた。15歳で論語、史伝等を学び、18歳で京の大学に入った。20歳ごろから山林での修行に入り、24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『三教指帰(さんきょうしいき)』を著した。

 延暦23(804)年、遣唐使留学僧として唐に渡る。804年〜806年にかけて、長安の醴泉寺(れいせんじ)、青龍寺などで学んだほか、越州にも滞在して土木技術、薬学などを学んだ。806年に帰国。本来の留学期間20年に対し、実際の在唐はわずか2年であった。

 帰国後、東寺(教王護国寺)を賜って真言宗の道場とし、816年には高野山に金剛峰寺を開いて真言宗の興隆につとめた。また私立学校として、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開設した。

 弘仁12(821)年、満濃池(まんのういけ、香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、当時の最新工法を駆使した工事を成功に導いたとされる。

 承和2(835)年、高野山で入定(にゅうじょう)。なお真言宗では、空海の入定は死ではなく永遠の禅定に入ったものとしている。

 「弘法大師」の諡号は、延喜21(921)年醍醐天皇より贈られたものである。従って、北海道を除く全国に5000以上あるという弘法伝説のほとんどは、空海の歴史的事跡とは関係がない。その成立には、中世に全国を勧進してまわった遊行僧である、高野聖(こうやひじり)の活動も関連しているとされるが、一方で、仏教のみにとどまらない空海の幅広い活動と、それに対する民衆の崇敬が、伝説形成の底辺にあることも確かであろう。

【雲部車塚古墳】くもべくるまづかこふん

 篠山市東本庄にある古墳時代中期の前方後円墳。全長142mをはかり、盾形の周濠(しゅうごう)をめぐらせる。明治29(1896)年に、当時の雲部村の人々によって後円部の石室が発掘され、その内容が精密に記録された。それによれば、石室は割石積みの竪穴式(たてあなしき)石室で、長さ5.2m、幅1.5m、高さ1.5mとされている。石室内には長持形石棺が置かれており、周囲の壁に設けられたL字形金具に掛けられたような状況で、槍や刀剣類が副葬されていたという。

 この際には石棺の蓋(ふた)は開けられなかったが、石室内の副葬品として、刀34本、剣8本、鉾(ほこ)2本、鎧(よろい)鉢4点、鎧胴5点、鏃(やじり)107点が記録された。その一部は、現在京都大学に保管されている。

 雲部車塚は、畿内から但馬、丹後へ抜ける交通の要衝に位置する大規模な前方後円墳であり、畿内政権と深い関係をもつ王の墓と考えられる。その後陵墓参考地に指定され、現在は宮内庁の管理下に置かれているため、新たな調査はおこなえない状況であるが、1896年の記録によって大型前方後円墳の埋葬状況を知ることができる、極めて重要な古墳である。

【黒井城】くろいじょう

 丹波市春日町と市島町の境にある、猪ノ口山(365m)山頂にある城。足利尊氏の北条攻めに加わった赤松貞範が、その功績によって春日町周辺を領有して築城した。

 西曲輪(くるわ)、本丸、二の丸、三の丸、東曲輪が並ぶ連郭式の山城で、東西170m、南北40mを測る。周囲9kmにわたる山地には、出城や館なども残る。

 赤松氏の後、赤井氏、荻野氏が領有した。天文23(1554)年に城主となった荻野直正(悪右衛門)は、勇将とうたわれ、丹後、但馬へも勢力を伸ばしたが、明智光秀に攻められ、4年間にわたる戦いの後に落城した。その後、光秀の城代として斉藤利三が入った際、この地で生まれた娘が、後に徳川家光の乳母となった春日の局(かすがのつぼね)である。1989年、国指定史跡。

【景行天皇】けいこうてんのう

 第12代の天皇。記紀には、全国を征討した天皇として描かれており、皇子ヤマトタケルによる熊襲、蝦夷の征討などの記述がある。143歳まで生きたとされるなど、伝説的要素が強く、史実性は確かではない。

【顕宗天皇】けんぞうてんのう

 第23代の天皇。『日本書紀』によれば、在位は485〜487年。名は弘計(おけ)。父の市辺押磐皇子(いちべのおしはおうじ)が、雄略天皇に殺されたために、兄の億計(をけ)とともに播磨に逃れ、雄略天皇の死後に名乗り出て即位したという。

【孝徳天皇】こうとくてんのう

 第36代の天皇(596?〜654)。在位は645〜654年。大化の改新による蘇我氏本家滅亡をうけて即位した。皇太子は中大兄皇子で、実質的権力は中大兄皇子が握っていたとされる。難波長柄豊碕宮遷都などをおこなったが、中大兄皇子は天皇の意に反して、皇后や百官を率いて大和飛鳥へ戻り、取り残されたまま難波宮で病死した。

【小式部内侍】こしきぶのないし

 平安時代中期の女性歌人(999?〜1025?)。父は橘道貞、母は和泉式部。一条天皇の中宮であった藤原彰子に仕えたが、若くして病没。小倉百人一首の「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」の歌は有名。

 当時、小式部内侍の歌は母の和泉式部が代作しているといううわさがあり、中納言藤原定頼が、歌合わせで歌を詠むことになった小式部に対して、「丹後国のお母さん(和泉式部は当時、夫の任国である丹後に下っていた)の所に、代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」などと質問をしたのに対して、その場でこの歌を詠んだという。

 その主旨は「大江山を越えて生野(丹後の地名)へと向かう道のりは遠いので、母のいる天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」という意味である。この当意即妙の歌は、小式部の名を大いにあげたとされる。

【昆陽池】こやいけ

 伊丹市昆陽にあるため池。奈良時代の高僧行基の指導で築造された、「昆陽の大池」である。1972年から都市公園として整備され、現在に至る。面積28.5haの池は、特に冬季の渡り鳥の渡来地として有名である。

【五輪塔】ごりんとう

 墓、または故人を供養するために建てられた塔の一種。多くは石製。下から順に、基礎、塔身、笠(かさ)、受花(うけばな)、宝珠の五段に積み、それぞれが、地、水、火、風、空をあらわす。密教に由来し、平安時代中ごろから造られるようになった。

【昆陽寺】こんようじ

 「こやでら」は通称。

 伊丹市にある真言宗の寺院。山号は崑崙山(こんろんさん)。一般には「行基さん」の名で親しまれている。行基が建てた昆陽院(昆陽施院)が元になり、天平5(733)年、聖武天皇の勅願によって建立された。織田信長の兵火にあって16世紀後半に焼失したが、後に再建された。本尊の薬師如来は行基作と伝えられる。

 観音堂と朱塗りの山門は県指定文化財。また、山門内に安置されていた持国天、多聞天の像は、平安時代中期の様式をもち、ともに県指定文化財となっている。