用語解説一覧

ひょうご伝説紀行に関連する用語解説一覧です。
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【明石原人】あかしげんじん

 1931年に古生物学者・考古学者の直良信夫(なおらのぶお)によって、明石市西八木海岸で発見された、ヒトの左寛骨(腰骨)の呼称。実物は1945年に空襲によって焼失した。石膏(せっこう)模型と写真が残されており、戦後、これを研究した東京大学の長谷部言人(はせべことんど)が、北京原人に近い人類と考えて「ニッポナントロプス・アカシエンシス」の名を与えたことから、明石原人と呼ばれるようになった。近年の研究では、現生人類(ホモ=サピエンス)と同じ特徴をもつとされ、原人説は否定されたため、単に明石人骨と呼ぶことが多い。

【赤松氏】あかまつし

 中世播磨の豪族。赤松は佐用荘内の地名。赤松則村(円心)が足利尊氏に属し、新田義貞との戦いに勝利して守護に任じられた。後には備前、美作の守護にもなり、幕府の四職(ししき、室町時代の武家の家格。三管・四職と総称する。三管とは管領に任じられる、斯波(しば)、細川、畠山の三家、四職とは侍所頭人に任じられる、赤松、一色、山名、京極の四家をいう)として室町幕府の重臣となった。

 しかし1441年に赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍足利義教を殺し、幕府軍の攻撃を受けて一族は没落した(嘉吉(かきつ)の乱)。その後赤松政則が再興したが、家臣であった浦上氏、宇喜多氏に領国を奪われ、さらには関ヶ原の戦いで西軍に属した赤松則房が戦死。一族は断絶した。

 赤松義則(1358〜1427)は、室町時代の武将。赤松満祐は義則の嫡男、政則は玄孫にあたる。

【悪党】あくとう

 本来は「悪者」を意味するが、日本史では、鎌倉時代末期から室町時代初めにかけて活動した、荘園領主(貴族)、幕府などに抵抗する、独立性をもった在地の集団(武士)をさす。悪党は中央政府から見た、「荘園を侵して荘園領主や政権に反抗する者」の呼び名である。鎌倉幕府打倒の戦いで知られる、河内国の楠木正成も悪党である。

【明智光秀】あけちみつひで

 戦国時代末〜安土桃山時代の武将(1528?〜1582)。美濃国守護の土岐氏(ときし)の一族とされるが、詳細は不明。織田信長に仕え、足利義昭の将軍擁立に関与した。信長の上洛後は、京都の公家・寺社などとの交渉役として活躍し、1571年には近江坂本城主となった。1575年から、信長による中国攻略にともなって丹波へ侵攻してこれを攻略。丹波一国の支配を認められた。1582年、京都の本願寺で信長を殺害したが、その11日後には羽柴秀吉と京都の山崎で戦って敗れ、敗走中に山城国小栗栖(おぐるす)で農民に殺害された。

【芦屋道満】あしやどうまん

 蘆屋道満とも記述する。

 平安時代中期の僧、陰陽師(生没年不詳)。道摩法師(どうまほうし)とも呼ばれる。道摩家は陰陽道の名家である。江戸時代の地誌『播磨鑑(はりまかがみ)』では、播磨国岸村(加古川市西神吉町岸)の出身とする。安倍晴明の好敵手とされ、『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』によれば、藤原道長を呪殺しようとして安倍晴明に看破され、捕らえられて播磨へ追放されたという。

【安倍晴明】あべのせいめい

 平安時代中期の陰陽師(921〜1005)。後に陰陽道を司る土御門家(つちみかどけ)の祖。賀茂忠行・保憲父子に陰陽・推算の術を学んで、式神を使い、天文を解する陰陽家となったという。事変を予知し、芦屋道満による藤原道長呪殺を防いだ逸話が伝えられている。

【アメノヒボコ】あめのひぼこ

 天日槍・天日矛とも書く。また、アメノヒボコノミコトともいう。

 記紀や『播磨国風土記』などに記された伝説上の人物。新羅の王子で、妻の阿加留比売(あかるひめ)を追って日本に来たという。その後、越前、近江、丹波などを経て但馬に定着し、その地を開拓したとされている。出石神社の祭神。

【有馬温泉】ありまおんせん

 神戸市北区にある温泉。『日本書紀』にもその記録があり、日本最古の温泉のひとつである。

 有馬温泉の最古の記録は『日本書紀』で、631年9月に舒明天皇(じょめいてんのう)が行幸して入浴したとある。その後衰微したが、行基が724年に再興。平安時代には白河法皇・後白河法皇も行幸し、『枕草子』にも三名泉としてあげられている。

 承徳年間(1097〜1099)に山津波の被害を受けるが、建久2(1191)年に大和国吉野河上高原寺(かわかみこうげんじ)の住職仁西上人が再修、薬師如来を守る十二神将になぞらえ12の坊舎を建てた。豊臣秀吉はこの湯が気に入り、夫人を連れてたびたび訪れたという。江戸時代には貝原益軒(かいばらえきけん)が『有馬湯山記(ありまとうざんき)』を記し、湯治場として繁栄した。県内では但馬国の湯嶋(城崎温泉)とともに江戸時代一、二を競う名湯とされた。都から近い事、設備が整っている事、名所やみやげが多い事、湯の種類が多い事などの数々の魅力で、江戸時代から現在まで変わらず観光客をひきつけている。

 有馬は、地質学的には活断層「有馬高槻構造線」の西端にあり、断層の亀裂を通って地下深くから温泉水が噴出している構造だとされる。泉源によって泉質が異なり、塩分と鉄分を多く含み褐色を呈する含鉄強食塩泉、ラジウムを含むラジウム泉(ラドン泉)、炭酸を多く含む炭酸泉がある。空気に触れると着色する含鉄強食塩泉を「金泉」、それ以外の透明な温泉を「銀泉」と呼んでいる。温泉の熱源については定説がない。

【安志姫神社】あんじひめじんじゃ

 『播磨国風土記』に記された安師里(あなしのさと)の、里名の起源となった安師比売神(あなしひめのかみ)を祭る神社。安師比売は、本来は在地の巫女神であろうが、安師の名は、大和国の安師坐兵主神(あなしにいますひょうずのかみ)を勧請(かんじょう)したためとされている。

 安師坐兵主神は鉱業神であることから、安志姫神社を製鉄に関わる神社と考え、安師里が製鉄をおこなっていたという記述を目にすることがあるが、安富町一帯の地質からみて、安志里での鉄の産出は否定される。

 一方奈良時代には、宍粟郡の柏野里(かしわののさと、山崎町・千種町)、比地里(ひじのさと、山崎町)、安師里(あなしのさと、安富町)には山部が置かれていたことが明らかになっている。山部は朝廷に直属する山部連(やまべのむらじ)に統率された部民で、その名の通り山の産物を朝廷に納めることを務めとしていた。

 上記の里のうち、柏野里は風土記に「鉄を出す」と記されていることから、比地里、安師里などの山部も、その運搬などに関わった可能性は残されている。こうしたことから、本来は土地の巫女(みこ)神を祭っていた所へ、大和の鉱業神が勧請されて一体化した可能性が指摘されている。

【安間家史料館】あんまけしりょうかん

 安間家資料館は、天保元(1830)年以降に建てられた武家屋敷で、代々安間家の住宅として使用されてきたものである。安間家は、禄高(ろくだか)12石3人扶持(天保8年ころ)の徒士(かち)であった。住宅は、入母屋造り、茅葺(かやぶ)きで間口6間半×3間半,奥行き4間×2間半の曲屋であり、建築当初の形をよく残している。1994年に篠山市の指定文化財となり、内部には安間家に残された古文書や日常に用いられた食器類や家具を始め、その後寄贈を受けた篠山藩ゆかりの武具や資料を中心に展示している。

【伊弉諾神宮】いざなぎじんぐう

 淡路市多賀に所在する延喜式内社で、淡路国一宮とされる。祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)。『日本書紀』では、伊弉諾尊は幽宮(かくりみや)を淡路に構え余生を過したとされ、社伝では本殿の下がその陵墓としている。例祭は4月20日から3日間おこなわれ、淡路の春を代表する祭りとして多くの人でにぎわう。1月15日の粥(かゆ)占神事や季節ごとの湯立神事など古代からの神事も継承されている。また縁結びの神様としても有名で、神社では数多くの人たちが結婚式を挙げる。

【石の寝屋古墳】いしのねやこふん

 淡路市岩屋小字サセブの山頂に所在する。この山頂には合計8基の古墳があり、「石の寝屋」と呼ばれるのはそのうちの1号墳である。墳丘がほとんど流出して、横穴式石室が露出しているが、石室自体も崩壊して天井石はすべて落下している。北東方向に開口する石室は、現状で長さ5.3m、幅1.3m、高さ1.3mほどの規模とされている。

 他の古墳は、1号墳から南西に離れた位置にある。正式の調査がなされていないため、詳細は不明であるが、2号墳からは6世紀後半の須恵器が採集されており、1号墳もこれと大差ない年代のものと推定できる。

 『日本書紀』などの記述によるならば、允恭天皇(いんぎょうてんのう)は5世紀前半の人であり、古墳の年代とは100年以上の年代差があることになる。従って考古学的には、伝説を鵜呑(うの)みにするわけにはゆかないだろう。しかし古墳の数が少ない岩屋周辺にあって、明石海峡を望む位置にあることから、これらの古墳が海と深い関わりをもつ人物を葬ったものであろうという推測は、許されるのではないだろうか。

【出石城】いずしじょう

 豊岡市出石町に所在する城跡。天正2(1574)年に、山名氏によって有子山山頂に築かれた有子山城を端緒とする。天正8(1580)年に、有子山城は羽柴秀吉の但馬攻撃により落城した。慶長8(1604)年、小出吉英により有子山山麓に築かれた平山城が、現在の出石城跡である。本丸と二の丸を山腹に、三の丸を平地に配する梯郭式(ていかくしき)の城で、山頂の城へとつながる。

 小出氏の後は、松平氏、仙石氏と続き幕末に至った。明治元年にすべての建物が取り壊された。

【出石神社】いずしじんじゃ

 豊岡市出石町宮内に所在する式内社(しきないしゃ)。但馬国の一宮(いちのみや)。アメノヒボコを祭神とし、アメノヒボコが新羅よりもたらした八種神宝(やくさのかんだから)を祭る。

【和泉式部】いずみしきぶ

 平安時代中期の女性歌人。生没年不詳だが、974年あるいは976年生という説がある。父は越前守大江雅致、母は越中守平保衡の娘。和泉式部の名は、最初の夫である和泉守橘道貞の任国と、父の官名に由来する。

 道貞との間には、娘小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれたが、やがて夫婦の間は破綻して別離。その後は為尊親王(ためたかしんのう)、敦道親王(あつみちしんのう)などとの恋の遍歴があったが、いずれも死別に終わっている。敦道親王との恋愛を物語風につづった『和泉式部日記』は有名であるが、式部本人の著述ではないとの説もある。

 後には、藤原道長の娘で一条天皇の中宮であった彰子に仕えているが、この時、彰子の傍には、紫式部、赤染衛門などの歴史に残る人材がいた。

 さらに藤原保昌と再婚し、保昌が丹後守に任ぜられると、共に丹後へ下ったとされる。和泉式部が50歳のころ、娘、小式部内侍が亡くなって、式部は悲しみに暮れた。保昌は1036年に亡くなったことがわかっているが、和泉式部晩年の消息はまったくわからない。

 現在、残っている歌は1500首を超え、『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集には276首もの歌が採録されている。特に恋歌や挽歌などの叙情的な和歌に、天分を発揮した。

【和泉式部歌塚】いずみしきぶうたづか

 書写山円教寺奥の院の、開山堂北側にある石製宝篋印塔(ほうきょういんとう)。和泉式部らが中宮彰子の供をして円教寺を訪れた際、性空上人は一旦これを拒絶したが、式部が詠んだ歌に感心して一行を迎え入れたという伝説にちなむものという。

【和泉式部供養塔】いずみしきぶくようとう

 加古川市野口町坂元所在。古くから和泉式部の墓として祭られている。旧山陽道沿いに立つ石製宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、室町時代初期の製作と考えられている。高さ255p。兵庫県指定文化財。

【和泉式部伝説】いずみしきぶでんせつ

 和泉式部の伝説は、東北から九州までの広い範囲に、数多く残っている。それは式部自身の恋多き生涯から多くの伝説が生まれ、それが中世、遊行の女性たちによって各地で語られたためであろう。またこうした女性遊行者が、「和泉式部」を名乗って、式部の伝説や古跡を残したという考えもある。

 柳田国男は、式部伝説がこのように多いのは「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。

 このことはまた、世阿弥の作と伝えられている謡曲『誓願寺』で、和泉式部が「歌舞の菩薩(ぼさつ)」として描かれ、後に芸能の世界の人々に和泉式部信仰が生まれたことと無縁ではないだろう。式部の墓所のひとつは、誓願寺に近い、京都市の新京極通りにある。

【一ノ谷の戦い】いちのたにのたたかい

 寿永3(1184)年に、現在の神戸市西部でおこなわれた源氏と平氏の戦い。この前年に都落ちした平氏は、西国で軍を再編して摂津福原へ進出した。これに対し京都に駐留していた源範頼(みなもとののりより)・義経軍は、後白河上皇による平家追討の宣旨を獲得して京都から福原へ向かい、生田、一ノ谷から大輪田の泊付近に布陣した平氏と戦った。この際、範頼・義経軍は二手に分かれて平家軍を急襲する。物語上有名な、義経による「鵯越(ひよどりご)えの逆落とし」である。戦闘は激戦となったが、平氏は多くの武将を失って四国へ敗走した。

【イチョウ】いちょう

 銀杏、公孫樹とも表記する。学名はGinkgo biloba。

 裸子植物イチョウ科に属するイチョウ類の中で、唯一の現存している種である。近縁の化石種は古生代から知られており、中生代のジュラ紀には世界的に分布していたが、現生のイチョウを除き、他の種はすべて絶滅した。広葉樹のように思われがちだが、針葉樹の仲間である。雌雄異株であるため、実は雌木にのみなる。

 イチョウの語源は、葉がカモの足に似ることから、中国語で鴨をさす「ヤーチャウ」がなまったとされる。

 実は銀杏(ぎんなん)と呼ばれ食用となるが、皮膚に触れるとかぶれなどを引き起こすことがある。また、食用とする種子の中には、神経伝達物質の生合成を阻害する成分が含まれ、けいれんなどを引き起こす恐れがあり、特に子供の場合には要注意とされる。大人の場合、1日あたりの摂食の目安は4粒程度とされるが、その一方で咳を鎮める効果があり、薬草として用いられることもある。

 現在日本で見られるイチョウは、中国で生き残ったものが持ち込まれたもので、その時期は平安時代後期〜鎌倉時代とされている。ヨーロッパには17世紀に持ち込まれ、現在では世界各地で栽培されている。

 イチョウは大木となるが、大木では枝から垂れ下がった円錐形の突起を生じる場合があり、乳イチョウなどと呼ばれる。「乳が出るようになる」といった伝説も、こうしたところから生まれたのだろう。

【伊和氏】いわし

 『播磨国風土記』に、「伊和君」として記される古代豪族。『播磨国風土記』によれば、もと宍粟郡の石作里(いしづくりのさと)を本拠とし、飾磨郡の伊和里(いわのさと)に移り住んだとされる。伊和大神を奉じ、これを祭る伊和神社は、宍粟市一宮町に所在する。

【伊和中山古墳群】いわなかやまこふんぐん

 宍粟市一宮町伊和に所在する、古墳時代前期〜後期の古墳群。伊和神社の南東にある丘陵上に、前方後円墳1基を含む16基の古墳が確認されており、うち1号墳と2号墳の発掘調査がおこなわれている。

 古墳群中最大の1号分は、全長62mをはかる前方後円墳で、竪穴式(たてあなしき)石室内に全長5mの木棺を埋葬していた。副葬品には国産の方格(ほうかく)T字鏡、環頭大刀(かんとうたち)、剣、鉄鏃(てつぞく)、鉄槍(てっそう)、鉄斧(てっぷ)、玉類がある。揖保川上流域における古墳時代史を研究する上で重要な古墳群である。

【伊和大神】いわのおおかみ

 宍粟市一宮町の伊和神社の祭神。大己貴神(おおなむちのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)とも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命(あしはらしこおのみこと)とも記されている。

 播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、渡来人(神)のアメノヒボコ(天日槍・天日矛とも書く)との土地争いが伝えられている。

 風土記には、宍粟郡から飾磨郡の伊和里(いわのさと)へ移り住んだ、伊和君(いわのきみ)という古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神と考えられている。

 なお、伊和神社の社叢(しゃそう)は、「兵庫の貴重な景観」Bランクに選定されている。

【岩屋港】いわやこう

 本州、淡路、四国連絡の要地として、江戸時代から港の工事がくり返しおこなわれたが、風波が厳しいため挫折も多かった。現在のような港ができたのは、昭和10(1935)年のことである。

 岩屋港からは、淡路島の東岸を縦貫する国道28号線がのびており、明石海峡大橋開通後も、フェリーが本州との間を結んでいる。また岩屋漁港は淡路町の漁業産業の中枢で、タイ、タコ、イカナゴなど、瀬戸内を代表する海産物が水揚げされている。

【岩屋城】いわやじょう

 岩屋城は、慶長15(1610)年に淡路を領有した池田輝政が築城し、家臣の中村主殿助に守らせた。岩屋港付近を望む、標高31mの台地上にあり、徳川氏が大坂の豊臣方を包囲するための拠点であった。

 慶長18(1613)年に、由良成山に新城が築かれる際に岩屋城は取り壊され、新城の資材とされたため、城としての生命はわずか3年であった。石垣の大部分は、後に岩屋港の築造などに用いられたという。

【岩屋台場群と松帆台場】いわやだいばぐんとまつほだいば

 1853年のペリー来航以来、海防の強化を余儀なくされた幕府は、淡路島の防衛を徳島藩に命令。淡路の由良、洲本、岩屋などに台場が建設された。松帆から岩屋にかけての海岸線に、5か所の砲台(台場)が完成したのは、1863年ごろのこととされている。

 最大の台場は松帆に置かれた。M字形の台場が海に突出し、当時最新式の80ポンド砲4門を含む、13門の砲が備えられた。松帆台場の背後には、小型船が停泊するための港を設ける計画で開削がおこなわれたが、港口が風波によって破壊されることが度重なり、結局断念せざるを得なかった。このほかに、岩屋古城台場、龍松台場、拂川台場、松尾台場が置かれ、常時70人の兵が駐在したという。

 1863年7月に、幕府の軍艦朝陽丸を誤って砲撃するという事件があったが、いずれの台場も実戦には使用されず、明治維新後に取り壊された。

【魚住城】うおずみじょう

 明石市魚住にある、中世の城跡。南北朝時代、赤松長範によって築かれた。天正6(1578)年には、魚住頼治が毛利氏に味方し、別所氏が篭城(ろうじょう)する三木城へ兵糧を運ぶための基地となったが、羽柴秀吉によって妨げられ、成功しなかった。三木城の落城とともに廃絶。1998年の発掘調査によって、堀割(ほりわり)の一部がみつかっている。

【宇治拾遺物語】うじしゅういものがたり

 鎌倉時代初めごろに編集された物語集。編者、正確な成立年代は不明。全15巻からなる。仏教的な説話、舌切りすずめ、わらしべ長者のような民話など、さまざまな伝承を収録しており、民俗学的にも重要な資料である。

【右大臣】うだいじん

 律令政府における最高機関であった太政官の職のひとつ。太政大臣、左大臣に次ぐ地位である(ただし太政大臣は常に置かれるものではなかったため、実質的には第二位の職)。 左大臣を補佐する。菅原道真は899〜901年に右大臣をつとめた。

【うだつ】うだつ

 民家で、妻の壁面を屋根より高く造った部分。また、建物の外側に張り出して設けた防火用の袖壁(そでかべ)。

【菟原郡】うばらぐん

 摂津国にあった郡のひとつ。現在の芦屋市・神戸市東灘区・神戸市灘区・神戸市中央区東部にあたる。兵庫県成立時にも郡名は存在したが、1896年に武庫郡に編入されて消滅した。

【駅家】うまや(単に駅:えき と記すこともある)

 律令期に、街道に置かれた駅伝制の施設。30里(約16km)ごとに設けられ、駅長、駅子(えきし)を配置した。厩舎(きゅうしゃ)、宿舎、厨家(くりや、炊事施設)などが設けられて、役人の職務のための旅行などの際、馬を乗り継ぎ、食料などを補給した。街道の格付けによって、準備される馬の数が異なり、山陽道の駅家では20頭を常備することとされていた。

 律令政府の変質に伴って平安時代中ごろからは衰退し、しだいに私人経営の宿がこれに替わるようになった。

【瓜生羅漢石仏群】うりゅうらかんせきぶつぐん

 相生市矢野にある石仏群。羅漢山ふもとの岩陰(幅7.7m、高さ5m、奥行き4m)に、釈迦三尊像(釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩)を中心として十六羅漢の石像が安置されている。伝説では、朝鮮の僧恵弁・恵聡(えべん・えそう、ともに『日本書紀』に記された飛鳥時代の渡来僧。恵弁は、蘇我馬子の仏教の師であったとされる)がここに隠れ住んで作ったというが、実際の製作年代は室町時代と推定されている。

【江井ヶ島の酒蔵群】えいがしまのさかぐらぐん

 江井ヶ島周辺は、17世紀ころから「西灘」とも呼ばれ、酒どころとして知られてきた。これは、東播平野の酒米と、良質の地下水に恵まれたためとされる。現在も、黒い焼き板壁の酒蔵が残り、レンガ造りのウイスキー蒸留所もある。

【絵島・大和島】えしま・やまとしま

 絵島は、岩屋港の東に浮かぶ島である。『枕草子』にも、「島は」と記されているほど、古くから知られた名勝であったようだ。砂岩が浸食されてできた奇観であるが、この岩盤はおよそ1500万年前に、砂や礫(れき)が水中に堆積してできたものである。

 その奇観のためか、国産み神話の「おのころ島」を、この絵島にあてようとする説もある。古来より名勝として人々に親しまれており、月見の名所として『平家物語』に出てくるなど、風光明美な場所として多くの文学にとりあげられている。

 絵島の頂上には、平清盛が大輪田泊を修築した時に、人柱にされようとした人たちを助け、自らが人柱になった松王丸の供養塔といわれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っている。近年は、毎年、中秋の名月の夕べに、「絵島の月を愛でる会」がおこなわれてにぎわう。

 絵島の南には、陸続きの小島があり、大和島と呼ばれている。山上にはイブキ群落があり、兵庫県の天然記念物に指定されている。

【絵馬】えま

 寺社に祈願するとき、および願いがかなってその謝礼をするときに奉納する、絵が描かれた木の板。奈良時代には生きた馬(神馬、しんめ)を奉納していたが、馬を奉納できない者は次第に木や紙、土で作った馬の像で代用するようになり、平安時代から板に描いた馬の絵で代用されるようになった。

【生石神社・石の宝殿】おうしこじんじゃ(「おおしこ」とも表記することがある)・いしのほうでん

 『生石神社略記』によれば、崇神天皇(すじんてんのう)の代に創建したとされ、背後の宝殿山山腹にある石の宝殿を神体として祭る。

 石の宝殿については、オオナムチの神とスクナヒコナの神が、出雲からこの地に来た際に、国土を鎮めるため、夜の間に石の宮殿を造営しようとしたが、阿賀の神の反乱を受けて造営が間に合わなかったという伝承(『生石神社略記』)、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ=物部守屋)が造ったという『播磨国風土記』の伝承などがある。古墳時代終末期の石棺や横口式石槨(せきかく)などとの関係を指摘する説、石棺の未製品とする説、火葬骨の骨蔵器外容器とする説、供養堂とする説などがあるが、製作年代については、7世紀代と考える人が多いようである。

【王子山焼】おうじやまやき

 文政元(1818)年から、明治2(1869)年まで、篠山市王子山で焼かれた陶磁器。篠山焼とも呼ばれる。当初は篠山藩主青山忠裕により始められた「お庭焼」であったが、後には地元の商人が運営を引き継いだ。

 主に磁器を生産し、青磁、染付、白磁などが焼かれている。製品には花器、鉢、文房具、水差し、徳利、皿、置物などがある。

 文政11(1928)年に、欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)を招いて指導を受け、亀祐自身の作品も残された。

【応神天皇】おうじんてんのう

 第15代の天皇。4世紀末から5世紀初頭ころとされる。記紀では、この時期に渡来人と新技術の伝来があり、大規模な開発がおこなわれたとしている。陵墓に比定されている誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)は、全長425mをはかり、墳丘の長さで第2位、体積では第1位の古墳である。

【大輪田泊】おおわだのとまり

 奈良時代に、僧行基が築いたと伝えられる摂播五泊(河尻・大輪田・名寸隅(なぎすみ)・韓・室津)のひとつ。平安時代末に、平清盛が港の前面に経ヶ島を築造して、風波にも安全な港とした。中世以降は兵庫津と称される。古代から続く瀬戸内航路の重要な港であり、現在の神戸港の原型といえる。

【処女塚古墳】おとめづかこふん

 神戸市東灘区御影塚町にある、古墳時代前期の前方後方墳。石屋川によって形成された、海岸線に近い砂堆(さたい)上にある。全長70m、後方部幅39m、前方部幅32mと推定されている。

 墳丘の整備に伴う発掘調査によって、葺石(ふきいし)の存在などが確認されているが、墳丘は全般に破壊が進んでいるという。後方部中央の埋葬施設は調査されていないが、通常の竪穴式(たてあなしき)石室ではないと考えられている。また、くびれ部に近い前方部で、箱式石棺1基がみつかっているが、これは古墳築造年代より新しい埋葬である。

 出土した土器には、鼓形器台(つつみがたきだい)などの山陰系土器が含まれており、西求女塚古墳と共通する要素として注目される。古墳の築造年代は、4世紀中ごろと推定されている。

【おもしろ昆虫化石館】おもしろこんちゅうかせきかん

 美方郡新温泉町千谷に所在する、昆虫化石の博物館。岸田川上流の小又川付近に分布する、約300万年前の照来層群から発見された、多数の昆虫化石が展示されている。昆虫化石が出土する場所は少なく、貴重な資料が保存・展示されている。

(毎週月曜休館、問い合わせ:0796-93-0888)

【温泉寺】おんせんじ

 兵庫県神戸市北区にある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺。有馬山と号する。本尊は薬師如来。縁起によれば、724年、行基によって開かれたとされ、仁西を中興の祖とする。

 1576年に火災で全山焼失したが北政所によって再建された。その後再び火災にあい、現在の薬師堂は1582年に建立されたものである。明治時代初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、豊臣秀吉が有馬大茶会を開催したとされる阿弥陀堂も含め、薬師堂以外の堂塔は全て取り壊された。その後、廃寺となった旧温泉寺の奥の院であった黄檗宗清涼院が寺籍を継いで現代に至る。

【陰陽師】おんみょうじ(おんようじ)

 律令国家で、中務省(なかつかさしょう)所管の陰陽寮に置かれた職員。天文、暦の算定、吉凶の占いをおこなう呪術師。陰陽道は、中世には貴族から武士へと広がったが、室町時代末ごろにはしだいに衰え、民間で占いや祈祷(きとう)、薬の製造などをするようになった。