助太郎話

 兵庫の伝説の中でも、助太郎(すけたろう)はちょっと変わった印象の話である。いろいろな本に取り上げられているが、内容が昔話的で、土地に根ざした伝説らしい泥臭さがない。どの土地にもありそうな話なのである。登場人物が人のよい木挽きや長者様、殿様など、昔話の定番だし、助太郎以外はどこの人なのかはっきりしないことも昔話的である。どこかから持ち込まれた話が、定着したのではないかとも思う。

 ところが一方で、舞台になった真南条(まなんじょう)の村には、ちゃんと助太郎の屋敷跡が残されている。これはどういうことなのだろうか。

 あるいはそれだけ、助太郎の人物像が愛されたからかもしれない。「鼻かぎの術」を簡単に信じ込んでしまう素直なお嫁さんもそうであるが、かんざしを盗んだ女の人を、諭しながらも守ってやるなど、話の中でだれも傷ついたりだまされたりしていない。助太郎の人のよさだけで、幸運は向こうから転がり込んでくるのだ。山里の素朴な人情にあふれた物語が、篠山(ささやま)の人たちの心に共鳴した結果が、助太郎屋敷をつくりだすことになったのではないだろうか。

 この物語には屋敷跡以外に訪ねる場所がない。けれども、篠山に残された歴史をめぐれば、物語を生んだ風土がわかるかもしれない。

助太郎屋敷跡
助太郎屋敷跡の遠景

助太郎屋敷跡の遠景

 その助太郎屋敷跡は、真南条下にある。国道372号線を北東へ向かい、舞鶴道(まいづるどう)の高架をくぐったすぐ先の三叉路(さんさろ)を村の中へ進むと、100mほど先の田んぼの中に、1mほどの高さがある四角い壇が見える。その一方は浅い池になっていて、壇の上には小さな祠(ほこら)と灯籠(とうろう)が置かれている。

 一見すると小型の古墳のようで、壇の裾にある、「助太郎屋敷跡」という古びた木の立て札がなければ間違ってしまいそうである。壇の面積は10m四方くらいだろうか。大きなお屋敷が建っていたような面積とはとても言えないが、なぜこんな狭い場所が「屋敷跡」と言われるようになったのか、明らかに人工的に整えられたこの壇は、そもそも何だったのか、結局わからずじまいである。

道から見た屋敷跡

道から見た屋敷跡

屋敷跡の祠

屋敷跡の祠

 
丹波焼と和田寺

 真南条の村から、武庫川(むこがわ)の流れを渡って西へ向かうと、今田町(こんだちょう)の上小野原(かみおのはら)の交差点がある。このあたりから南北にのびる谷筋が、丹波焼(たんばやき)のふるさと四斗谷(しとだに)から立杭(たちくい)の谷である。南へ道をたどると、両側には窯元が軒を連ね、焼物を求める観光客の姿も多い。

立杭の里 北の山から

立杭の里 北の山から

山中で見つけた石仏

山中で
見つけた石仏

 丹波焼は、800年ほど前の鎌倉時代から生産が始まった。壺(つぼ)、甕(かめ)、すり鉢など、庶民の日用器を中心に生産を続け、近世には江戸の町でも大量の丹波焼すり鉢が売られていたという。焼き締めや、赤土部、灰釉(かいゆう)など、素朴な陶器は、時代を超えて人々に愛されている。

和田寺遠景

和田寺遠景

和田寺

和田寺

本堂前の石仏

本堂前の石仏

 この立杭の北端にあるのが、和田寺(わでんじ)である。寺伝では7世紀に法道仙人(ほうどうせんにん)が開いたとされ、最盛期には数十の伽藍(がらん)が建ち並ぶ大寺であったそうだが、幾度かの兵火に焼かれ、現在の位置に移ったという。伽藍こそ新しいが、静かな参道や境内は心を落ち着かせてくれる。

 
篠山の町並みと篠山城

 国史跡篠山城は、慶長14(1609)年に徳川氏によって築城された。大坂城にたてこもる豊臣氏の周辺を押さえるためで、数多くの大名に号令して、わずか半年で築城されたという。

 現在、篠山城には、往時の建物は残されていない。明治維新でほとんどの建造物が取り壊され、残された大書院も失火によって焼失。現在の大書院は2000年に再建されたものである。城の北側は駐車場などが整備されて、便利ではあるが城の景観は少し損なわれているかもしれない。

南の外堀からの眺め

南の外堀からの眺め

内堀と石垣

内堀と石垣

城跡から見た町並み

城跡から見た町並み

石垣に残る記号

石垣に残る記号

石垣に残る記号

石垣に残る記号

 城の風情を味わうには、むしろ外堀をめぐる西側の道を通って、城の南へ回ったほうが良いだろう。堀の西には、「お徒士町武家屋敷群(おかちまちぶけやしきぐん)」が残り、幕末の城下の雰囲気を今も残している。通りには安間家史料館(あんまけしりょうかん)もあり、江戸時代の武士の生活をしのばせる調度や武具が展示されている。馬出しなどを見ながら桜並木の堀際を歩くと、水面に精美な石垣が映える。

明りがともった河原町の商家群

明りがともった河原町の商家群

 篠山城の東には、「河原町妻入商家群(かわらまちつまいりしょうかぐん)」が残されている。篠山築城の際に造られたという白壁の家々は、美しく調和しあっている。夕暮れにともる明かりも工夫されていて、独特の雰囲気を見せてくれる。

妻入りの商家

妻入りの商家

 妻入とは、切妻造りの建物の、妻の側に出入り口があること。したがって間口が狭く、奥行きの長い建物が多い。千本格子の窓やうだつ、袖壁(そでかべ)など古い商家の姿は、時代劇の中に入り込んだような錯覚を起こさせてくれる。町並みの中には、丹波古陶館(たんばことうかん)、能楽資料館があり、土産品店、骨董品店も多い。

 この河原町の裏山が、焼物で有名な王子山(おうじやま)、東は亀岡(かめおか)を経て京都へ続く街道への出口となる京口である。

雲部車塚
雲部車塚

雲部車塚

説明板

説明板

 篠山の城下から、亀岡へ抜ける街道を東へ7〜8km行った所に、丹波最大の古墳、雲部車塚(くもべくるまづか)がある。全長140mをはかる前方後円墳で、満々と水をたたえた濠(ほり)を巡らせている。篠山のような山間の盆地に、これほどの大古墳が造られたのは、単に篠山盆地の生産力が高かっただけではなく、摂津から丹波を抜けて但馬まで行く道筋にあたっていたことも理由のひとつだろう。

 現在は陵墓参考地として、調査はおろか立ち入ることも許されていないが、明治29(1896)年に後円部が発掘された際には、石室の中に納められた長持形石棺と甲冑(かっちゅう)などが見つかっている。その際の様子は精密なスケッチに残され、出土品は一部が京都大学に保管されている。

 残念なことに、あるいは幸いにも、その際には石棺は開けられていない。したがって何が中に納められているのか、どのような人物が葬られているのかはわからないままである。しかしそのおかげで、おそらく石棺の中身は腐朽劣化を免れ、今も眠っている。間違いなく未来へ引き継がれる遺産になることだろう。

 5世紀に造られたこの古墳の謎解きは、とても気になるけれど未来に託すことにして、しばしその威容に打たれてみよう。