和泉式部という女性

 和泉式部(いずみしきぶ)は、平安時代中ごろ(10世紀末ごろから11世紀前半)に生きた女性であるが、生没年ははっきりしないようである。父は越前守(えちぜんのかみ)だった大江雅致(おおえのまさむね)、母は平保衡(たいらのやすひら)の娘である。

 式部を有名にしているのは、何と言っても和歌であろう。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙などの中にも選ばれていて、身近には小倉百人一首の「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな」という歌を思い出す人も多いかもしれない。

 最初の夫であった和泉守橘道貞(たちばなのみちさだ)との間には、後に小式部内侍(こしきぶのないし)と呼ばれる娘が生まれたがやがて別離し、その後は数多くの恋愛を重ねて、藤原道長(ふじわらのみちなが)からは「浮かれ女」と呼ばれたという。後に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と再婚して、夫が赴任した丹後(たんご)に下ったとされているが、晩年のことはほとんどわからないらしい。

 和泉式部の伝説は、北海道から九州までの広い範囲に、数多く残されている。そのほとんどは史実とは異なるものだけれど、一方で、彼女の歌とともに、その伝説が多くの人から愛されたことは間違いないだろう。

桑原の里
桑原の村から和泉式部供養塔を見る

桑原の村から
和泉式部供養塔を見る

供養塔の麓から

供養塔の麓から

木立の中にある供養塔

木立の中にある供養塔

和泉式部の供養塔

和泉式部の供養塔

 桑原(くわはら)は、篠山市(ささやまし)の中心部から10km余り北にある。丹波市(たんばし)との境界に近い栗柄峠(くりからとうげ)の少し東から、曲がりくねった細い山道を通るか、さらに東の本郷から箱部峠(はこべとうげ)方向へ向かうと、このおだやかな山里に至る。

 由良川(ゆらがわ)の最上流部にあたる友渕川(ともぶちがわ)から、さらに分岐した細い川が、村の中を流れている。その左右の斜面に、ひな壇のように小さな田があり、尾根の上や斜面に沿って村の家々が並ぶ。和泉式部の供養塔は、村の北側に張り出した小さな尾根の上に建っている。

 尾根の先から急な階段を登ると、小さなお堂がある。お堂には扉も壁もないが、奥には仏様が納められている。その奥に、たくさんのお地蔵様と一緒に、和泉式部の供養塔だという小さな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が並んでいた。

 塔の前はきれいに掃き清められ、小さな花瓶には花が挿してあった。杉木立の間から木漏れ日さし込み、その向こうには棚田が見える。村の人たちが大切に祭ってきたのと同じように、式部の塔も、ここから村を守り続けてきたのだろう。

 
山陽道に沿って

 山陽道沿いにも、和泉式部の伝説が点々と残されている。伊丹市(いたみし)の北園(きたぞの)には、式部の墓だという五輪塔があり、さらに明石(あかし)、加古川(かこがわ)、姫路、相生(あいおい)へと伝説の場所を訪ねることができる。

遍照寺

遍照寺

道標

道標

 明石市魚住(うおずみ)の遍照寺(へんしょうじ)には、『小式部内侍祷(いのり)之松縁起』が伝わっている。それによれば、娘、小式部内侍の死を悼んで、書写山円教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)に性空(しょうくう)上人を訪ねた和泉式部は、その帰途、長幡寺(ちょうはんじ)にこもって法華経(ほけきょう)をよむ。すると香の煙の中に、小式部内侍が現れたというのだ。そこで式部は、一条天皇から小式部内侍ゆかりの松を譲り受けて、長幡寺の近くに植え、寺の寂心上人が小式部の供養塔を建てたとされている。

 この遍照寺から南へ400mほどの住宅地の中に、和泉式部が小式部を弔うために建てたという五輪塔が残されている。丘の上の住宅地の間にある小さな空間に、大人の背丈ほどの五輪塔が建っている。注意していないと見つけるのも難しいが、今でも花が手向けられ、大切にされている。

小式部内侍供養塔 小式部内侍供養塔 小式部内侍供養塔

小式部内侍供養塔

 「小式部内侍祷(いのり)の松」は遍照寺の北、旧西国街道に沿った場所にあったらしい。かつては海からも見える、東西35mにも枝を広げた巨大な松があったというが、今ではその松の木への道程を示す道標だけが残されている。2006年にこの取材をおこなった時には、残念なことに道路工事のために道標は一時的に撤去されていて、見ることができなかった。

西国街道の道標 西国街道の道標

西国街道の道標〜ここから1qほどのところに、祈りの松があったらしい〜

 さらに西へたどると、加古川市野口町坂元では和泉式部供養塔に出会う。旧西国街道に面して建つ宝篋印塔である。この塔は古くから和泉式部の墓だとされていたらしく、今も地元の方が毎日掃除をし、花を手向けて丁寧に祭っている。実際に建てられたのは室町時代のことで、当時の様式をよく残していることから、県指定文化財となっている。

和泉式部の供養塔

和泉式部の
供養塔

説明板

説明板

 日ざしの明るい通りで塔を撮影していると、学校帰りらしい中学生たちが不思議そうに眺めて通り過ぎて行くのだった。

 
西播磨の和泉式部
円教寺奥の院

円教寺奥の院

 書写山円教寺には、和泉式部の歌塚がある。伝説では、一条天皇の中宮彰子に仕えていた和泉式部が、彰子やほかの女房たちとともに性空上人を訪ねたが、上人は会ってくれない。そこで式部は寺の柱に、一首の和歌を書いて立ち去ろうとした。

くらきより くらき道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月

 この歌に感心した上人は、一行を呼び戻して丁重に教えを垂れたと伝えられている。性空上人は、式部が彰子に仕えるより早く亡くなっているから、この話は事実ではないだろうけれど、詠まれた歌は確かに存在する。

開山堂裏に立つ歌塚

開山堂裏に立つ歌塚

 その歌塚は、円教寺奥の院の護法堂奥にひっそりと建っている。仏の救いを求める強い祈りを込めたこの歌を、もし性空上人が目にしていたなら、伝説のようなことになっても不思議ではないだろう。書写山に近い姫路市青山には、和泉式部の腰掛け石もあるという。

 さらに西へと道をたどると、相生市若狭野町雨内には、「和泉式部宿り木の栗」があった。旅の途中雨に降られた式部が、この地の栗の木の下で雨宿りして、

苔筵(こけむしろ) 敷島の道に 行きくれて 雨の内にし 宿る木のかげ

という歌を詠んだと伝えられている。

石碑が立つ山裾

石碑が立つ山裾

和泉式部旧跡の石碑

和泉式部
旧跡の石碑

 もちろん今はその木もなく、雨内の村の山すそに和泉式部旧跡という石碑が残るのみであるが、数十年前までは年に一度、この場所でお茶の接待がされていたと、石碑の傍に住む老婦人がくり返し語ってくれた。

同じ雨内の教証寺には、和泉式部について書かれた古い文書もあるという。 同様の話は相生市内の那波にある得乗寺にも伝わっており、この寺の境内の「枝垂れ栗」が、雨宿りの栗の木だったとされている。

 伝説はさらに、この雨宿りがきっかけとなって、生き別れていた娘、小式部内侍と和泉式部とが再会したと伝えている。

 和泉式部とは、どのような女性だったのだろうか。織り連ねられた数多くの伝説の向こうにもその姿は見えないが、この歌を読むと、ただ恋多き女だったわけではなかったのだろうと思えてくる。

世の中に 恋といふ色は なけれども ふかく身にしむ ものにぞありける
後拾遺集

雨内の村

雨内の村