兵庫県下には源義経(みなもとのよしつね)や弁慶(べんけい)の伝説が数多く残っている。源平の戦いの舞台になった場所であるから、当然といえば当然なのだが、その背景には、やはり一代の英雄への哀惜の念もあるのだろう。

 小野市樫山(かしやま)周辺に残された伝説は、それぞれの場所に伝えられる話が不思議な現実味をおびている。

こくい坂と亀井ヶ淵
こくい坂

こくい坂

こくい坂

こくい坂

 こくい坂を訪ねたのは、早朝であった。家々の屋根の向こうに、加古川(かこがわ)にかかる朝もやがゆっくりと流れてゆくのが見える。足下の草は朝露を含んで、靴をぬらした。こくい坂は、神戸電鉄樫山駅の南西500mほどに位置する、樫山の南にある丘を登る坂である。竹やぶと雑木に覆われた丘の斜面に、人ひとりが歩けるほどの細い道が続いている。今ではもう、歩く人も滅多になさそうだが、良く手入れされていた。

 とても大軍勢が登れそうには見えないが、現在のように道路が整備される前には、これが三木方面へ抜ける道の一つだったのである。

亀井ヶ淵(説明板)

亀井ヶ淵
(説明板)

亀井ヶ淵

亀井ヶ淵

 こくい坂から少し奥まった山すそに、亀井ヶ淵がある。あぜ道を歩いて傍まで行ってみると、直径が2mほどの円い水たまりとなっていた。見たところは、明らかに人工の水だめである。それがどうして「矢で射た場所から水が噴き出した」ことになったのだろうか。

 山すそだから、もともと水がわきやすい場所だったのは確かだろう。豊かな水量が、いつしか義経伝説と結びついていったのだろうか。もしこの水だめが義経のころにあったなら、兵士と軍馬のために、うってつけの水場になっただろう。

弁慶の重ね石

 この丘を南西に回り込んだ場所に、弁慶の重ね石がある。山すそに立つ案内の石碑から急な斜面を登ると、雑木林の中に数メートル四方もあるような、巨大な岩があった。丘の骨組みの岩盤が、中腹に顔を出しているのだ。けれど、ちょうどその中ほどに実にうまい具合に水平のきれつが走っていて、まるでそこで積み上げられたかのように見える岩である。

弁慶の重ね石

弁慶の重ね石

弁慶の重ね石(説明板)

弁慶の重ね石
(説明板)

 誰でも思わず、「なるほどね」とつぶやくのではないだろうか。もっとも、山を持ち上げようとしたり、怪物を討ち果たしたりした弁慶だから、この程度の岩を重ねるくらいは、朝飯前であっただろうけれど。

 
国位田碑
国位田碑

国位田碑

国位田碑

国位田碑

 粉飯(こめし)へのお礼として、義経が老婆に与えた六畝(せ)の田は、江戸時代になるまで免租の田として続いていたというから、それが本当なら400年ほども引き継がれたことになるだろうか。時代が移り、支配者が変わる中で、それほどまで長く続いた理由は何だったのだろうか。

 単なる権力者の威光だけでは、とてもそこまでは続くと思えない。村人たちの思いが込められていたからこそ、時代を超えて引き継がれたと思いたい。今はもうその田がどこであったのか知るすべはなく、樫山の村の中には、国位田碑(こくいだのひ)だけが残されている。

 
義経の腰掛け石
義経の腰掛け石

義経の腰掛け石

 義経の腰掛け石は、神戸電鉄樫山駅のすぐ傍にある。ちょうどプラットホームの一番北端あたりであるが、そこまで行くには、駅前の旧道を50mほど北に歩き、遠慮しながら民家の庭先を入らなくてはならない。わかりにくい場所だったが、近所の方に尋ねると「ああ、そこの家をはいるんやで」と教えてもらえた。

 木立に隠れるように笠(かさ)形の巨石がすわっていて、その前に小さな祠(ほこら)があり、花と線香が供えられていた。

 見たところは、古墳の石室を覆う天井石のように見える。かつて樫山には、後期の古墳群があったから、人知れず破壊されてしまったものもあっただろう。その巨石が運ばれないまま残されて、いつしか義経と結びついていったのかもしれないと想像してみた。

義経の腰掛け石(説明板)

義経の腰掛け石
(説明板)

義経の腰掛け石(祠)

義経の腰掛け石(祠)

 樫山に点在する義経伝説の地は、どこもごくささやかな場所である。立派な寺や石造物があるわけではない。けれどもそこに、義経主従への思いを重ねてきた村人たちの歴史が、いつしかその場所を伝説にしていったのではないだろうか。身近にある場所で語り継がれた伝説は、これからも暮らしの中で生き続けてゆくことだろう。