空海と弘法伝説

 空海(くうかい)は、平安時代の僧である。唐(とう)へ留学した後、京都の高尾山寺(たかおさんじ)へ入って真言宗を広めるとともに、高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を建設。さらには東寺(とうじ)を下賜されて、真言宗の根本道場としている。835年に62歳で死去し、921年に醍醐天皇(だいごてんのう)から「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号(しごう)が贈られた。

 空海は、単なる「唐へ留学したインテリ」だったわけではない。香川県にある日本最大の農業用ため池、満濃池(まんのういけ)を改修する際には、その責任者として当時の最新技術を駆使した工事を成功させていることを見ても、彼が唐で学んだことの幅広さがわかる。そういう活躍が、いつの間にか人々の間で、伝説を産む元になったのだろうか。

 伝説の中には、「空海」という名は出てこない。出てくるのはすべて弘法大師である。死後90年近く経って贈られた名の方が、生前の名よりもはるかに広く語られ、人々の間に定着したのは、どうしてなのだろう。弘法伝説を読むたびに、疑問が浮かぶ。もしかすると民衆にとっては、生きた人としての空海よりも、霊としての弘法大師こそ、信じ求めるものだったのだろうか。

すりこぎかくしの世界

 但馬(たじま)は雪深い土地である。一晩に何十センチも積もることも、珍しくはない。雪深い土地であればなおのこと、暮らしには厳しいものがあっただろう。「すりこぎかくし」は、そんな世界に住む貧しい、生まじめな老女の小さな悪事―自分ではなく他人のために働いた行為―を、弘法大師がそっと隠してやるという物語である。お大師様は、貧しくてもまじめな者の味方をしてくれる。そんな素朴な思いが込められた物語なのだ。

 但馬には、豊岡市(とよおかし)の東楽寺(とうらくじ)、養父市(やぶし)の日光院(にっこういん)、養父市別宮(べっくう)の大カツラなど、空海にゆかりの場所がいくつかある。しかし伝説が伝わる新温泉町(しんおんせんちょう)内では、「空海開基」の寺をみつけることができなかった。ここでは空海は、文字通り伝説上の「弘法大師」として生きているのだろうか。古いお寺をめぐって、そんなことを考えた。 

相応峰寺

岸田川から見た観音山

岸田川から見た観音山

相応峰寺

相応峰寺

相応峰寺

相応峰寺

 相応峰寺(そうおうぶじ)は、岸田川(きしだがわ)が日本海に注ぐ河口のすぐ東、浜坂町清富(はまさかちょうきよどめ)の観音山(かんのんざん)にある天台宗の寺である。岸田川に沿った心地よい道を海へとたどり、河口の手前で川を東へ渡ると、左手に見える小高い山が観音山。そのすそに、寺の里坊が見える。

里坊の石仏

里坊の石仏

本堂(観音山上)

本堂(観音山上)

山上からの眺望

山上からの眺望

 この寺は、奈良時代に行基(ぎょうき)が開いたとされる。弘法大師と同じように民衆に慕われ、菩薩(ぼさつ)と呼ばれた行基は、但馬でも同じように人々を救ったのだろう。坊のわきには、眼病や流行病に効くという金水・銀水がわく。

山道の石仏

山道の石仏

本堂そばの石像

本堂そばの
石像

 里坊のわきから、山道を登る。道に沿って石仏が並び、登る人を頂上へと導いてくれる。息を切らせながら20分も登ったろうか。ようやく鐘楼の姿が見え、その奥に本堂の円通殿がある。高い杉木立に囲まれた、静かな場所だ。

 本堂の裏手からさらに登ると、観音山の山頂である。芝生広場になっている山頂からは、日本海の雄大な景色が180度広がる。はるかに下の岩場に砕ける波頭が見えるが、波音は聞こえない。遠くかすむ海にしばし見とれて、足の疲れも忘れてしまった。

 山頂のすぐ下には、高いポールが立つ。毎年ここに大きな鯉のぼりが泳ぐそうなので、いつか是非見てみたいと思う。

正福寺

参道

参道

説明板

説明板

 湯村温泉のまん中にあるのが、平安時代前期、湯村温泉(ゆむらおんせん)を発見した慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が開いた正福寺(しょうふくじ)である。国道9号線から離れて春来川(はるきがわ)を渡り、川に沿った細い道を温泉の中心街へ向かうと、その途中に本堂への長い階段があった。

 日の出直前の時間だというのに、もうゆかた姿の人が道を歩き、足湯に浸っている人もいる。川沿いに上がる湯気が、いかにも温泉場らしい。

 階段の上に、堂々とした門がそびえる。本尊は県の文化財に指定されている、平安時代後期の木造不動明王像で、この像は21年ごとに開帳される秘仏である。前回の公開は2004年だったそうだから、次は2025年になるのだろうか。

正福寺の境内

正福寺の境内

本堂

本堂

 秘仏は滅多に見ることはかなわないが、境内のまん中にある桜は、毎年花を見せてくれる。この木は、ヤマザクラとキンキマメザクラが自然交雑して生まれたもので、植物学者牧野富太郎(まきのとみたろう)によって発見、命名されたという歴史をもつ。現在のところ兵庫県固有のもののようで、正福寺桜の名で親しまれ、町の天然記念物にも指定されている。

独鈷の滝と岩瀧寺
独鈷の滝

独鈷の滝

独鈷の滝

独鈷の滝

 丹波にも弘法大師の伝説がある。その地のひとつ、氷上町(ひかみちょう)の香良(こうら)を訪ねた。加古川(かこがわ)が佐治川(さじがわ)と名を変える上流部である。

 丹波山地の広い谷筋にできあがった、緩やかな斜面に沿って香良の村がある。伝説が伝わる独鈷の滝は、その谷奥、山腹に露頭した荒々しい岩盤を流れ落ちている。道が山すそにかかると周囲は一気に森へと変わり、車から降りると、湿気を含んだ空気が体を包む。独特の、森の香気を含んだ空気である。

 そこから山道を詰めてゆくと、間もなく高く切り立つ岩盤が目に入る。ところが激しい水音は聞こえているのに、滝は見えない。不思議に思いながら滝壺の前まで小径を行くと、ようやく、岩の壁の裏側を、えぐるように流れ落ちる滝を目にすることができた。

 高くはないけれど、美しい滝だ。流れ落ちる水は、上の方では日の光を浴び、淡い木陰へと落ちてゆく。滝壺の手前にはモミジの木が何本か伸びていて、紅葉の時は、きっと素晴らしいコントラストを見せてくれるに違いない。人を呑むほどの大蛇がいたにしてはつつましい滝壺からは、清らかな水が流れ出していた。

 滝のすぐ下手には、岩瀧寺(がんりゅうじ)がある。

岩瀧寺(本堂)

岩瀧寺(本堂)

山門

山門

 岩瀧寺は、平安時代の初め頃、嵯峨天皇(さがてんのう)が空海に命じて建立した寺だと伝えられている。弘仁年間(809〜823)のことだというから、空海が40代のころだろうか。七堂伽藍(しちどうがらん)を備えた大寺だったというが、戦国時代の兵火によって焼失して、かつての伽藍は残っていない。現在の堂は、近世に再建されたものとのことである。

龍

 小さいながら風格がある門や、檜皮葺(ひわだぶ)きの本堂が、背後の山や高い木々と相まって、落ち着いた、しかし明るい雰囲気を作っている。滝から境内は紅葉の名所とのことだし、寺の案内にある雪景色は、山水画のような美しさであるが、まだ見る機会がない。

 こんな美しい場所に、どうして恐ろしい大蛇の伝説ができ、それが弘法大師と結びついたのだろうか。あるいはそれは、時に人知が及ばないほど猛り狂う水を治めたいという願いが生んだ伝説なのだろうか。

 
水分かれ
水分かれ

水分かれ

 氷上には、もうひとつ水に関わる大切な場所がある。それが水分かれである。加古川は、氷上町に入ると佐治川と名を変え、ちょうどそこで一本の支流が分岐し、東へと向かう。これが高谷川(たかたにがわ)である。高谷川は、まもなく氷上町石生(いそう)の谷ふところへと入ってゆくが、この谷へはもう一本の川―黒井川(くろいがわ)―も源をもっている。

 黒井川は高谷川とは反対に、谷を下ると東へ流れ、由良川上流部の竹田川に合流する。つまりこの谷から流れ出た水は、加古川と由良川(ゆらがわ)、瀬戸内海と日本海に流れる二つの川へと注ぐのである。本州の中で最も低高度の中央分水界であるこの地は、古くから「水分かれ(みわかれ)」と呼ばれた。

左瀬戸内海、右日本海・・・

左瀬戸内海、右日本海・・・

 水分かれの重要性は、単に「最も低い分水界」という地形学的なものだけではない。瀬戸内側から日本海側へと抜けようとすると、兵庫県の場合必ず中国山地の峠を越えなくてはならないが、水分かれの谷を経由して加古川から由良川へ抜ける道は、峠越えの必要がないのである。そのため古代から、このルートを通って人と物の交流がおこなわれていたと考えられているのだ。

 最近水分かれのあたりは、ずいぶんきれいに整備されて公園となっている。川もコンクリートや石垣で固められて、日本海と瀬戸内海への分岐部分も人工的な流路になってしまった。周辺の桜並木は美しいだろうけれど、これではホタルも住めないだろうと少し残念である。