志染の里の風景

 神戸市西区押部谷町(おしべだにちょう)。古くからの村や田園風景と、新興住宅とが入りまじった町を通り抜け、クヌギやコナラが育つ丘を北へ登る道を行くと、やがて、神戸市北区から三田(さんだ)方面と、三木市御坂(みきしみさか)方面への分岐に至る。最近整備されて、道幅が3倍にもなった御坂への道へと左折してしばらく進むと、長い下り坂になる。それを下りきった所に流れる川が、志染川(しじみがわ)である。

 少し前までは、緑濃い里山が連なり、桜のころには「春の女神」とたたえられるギフチョウが舞っていたこのあたりも、高速道路が通り、道が整備され、広大な防災公園が造成されて、景観は急速に変わりつつある。

 その里の一角に、1500年以上も前の伝説を伝える窟屋(いわや)―志染の石室―が、往古から変わらないまま残されている。

志染の石室
旧道に立つ道標

旧道に立つ道標

道標

道標

志染の石室道

志染の石室道

 御坂の交差点から志染川を渡って、少し南へ道を戻ると、幅広い道の左手に細い旧道が分岐する。その旧道を少し登ると、トタン張りの小屋の角に、草に埋もれるように「志染の石室道」と彫られた道標が建っている。左へ折れて村の中を通る細い道を東へ向かうと300mほどで駐車場があり、そこから谷沿いに整備された山道を歩くと石室へと導かれる。

志染の石室

志染の石室

志染の石室

志染の石室

 石室は、谷に面したがけの下にある。高さ5〜6mほどのがけの下1/3ほどが深くえぐられて、幅の広い洞窟(どうくつ)のようになっている。がけは、拳よりも小さい石が集まった「礫岩(れきがん)」でできていて、水がぽとぽとと落ちているから、おそらく長い年月の間に、わき水による侵食や崩落でできたのだろう。

 石室の前には玉垣があり、その中に小さな祠が祭られている。脇にはたくさんの石仏が、訪れる人を見つめている。石室の中をのぞいてみると、深さの知れない水がたまっている。 二人の皇子もこれでは暮らせないだろうから、伝説ができた奈良時代以前には、少なくとも現在のような水たまりはなかったに違いない。

石室には湧き水がたまっている

石室には湧き水がたまっている

金水現象(2007年2月21日撮影))

金水現象(2007年2月21日撮影)

 この水は冬から春にかけての時期、不思議な現象をおこすことがある。「窟屋(いわや)の金水」と呼ばれる現象である。水面が金色に輝くというこの現象は、ヒカリモという小さな藻によっておこるのだが、ごく限られた場所でしか見られない。志染の石室では久しく絶えていたそうであるが、2002年頃から、再び見られるようになった。生物と環境の微妙なバランスでできる、不思議な光景である。

 
志染周辺の文化財

 志染周辺には文化財が多い。その中からいくつか、興味深いものをたどってみよう。

伽耶院
仁王門

仁王門

二天門

二天門

伽耶院境内

伽耶院境内

本堂

本堂

多宝塔

多宝塔

白稲荷

白稲荷

 石室から、志染川を挟んだ対岸にのびる山には、修験道(しゅげんどう)の名刹(めいさつ)、伽耶院(がやいん)がある。山陽道三木東インターチェンジができて、すっかり人工的な景観になったあたりを少し北へと抜け、細い流れに沿って東の山ふところへと入ってゆくと、ほどなく仁王門が見えてくる。仁王様は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の兵火で焼け残ったものと聞くが、頭部も足もなくて、ひどく傷んでいる。

 仁王門の脇を抜けてさらに奥へと進むと、あたりには深山のような雰囲気が漂い始め、すぐに「二天堂」と呼ばれる門が見える。門をくぐり、木々に覆われた階段を登ると、そこが伽耶院の本堂である。

 落ち着いた瓦葺(かわらぶ)きの本堂の前には、ひときわ太いモミの木が2本、天を指している。本堂は、密教寺院の建築様式を踏んでいるということだが、あたりは、それに似つかわしい静寂に包まれている。本堂の東には多宝塔が優美な姿を見せ、少し奥まって、三坂明神社(みさかみょうじんじゃ)が祭られている。かつては修験道の寺院としてにぎわい、数多くの堂坊を連ねていたそうだけれど、今の静かなたたずまいからは想像も及ばない。

 多宝塔の脇に、たくさんの石うすを積みあげた、「白稲荷」という小さな祠があった。これには「昔、このあたりの田は、水が流れ出るのを止めるため、あぜの水口(みなくち)に石うすを置いていた。ところがある干ばつの年、狐(きつね)が老人に化けて村中の田から全ての石うすを取り去り、水を平等に分けた。これを見て恥じた村人たちは全ての石うすをここに奉納した。」という伝説があるという。

三木城
三木城遠景

三木城遠景

美嚢川と三木城の夕景

美嚢川と三木城の夕景

別所長治辞世歌碑

別所長治辞世歌碑

 志染川に沿って西へ行くと、三木の市街地に至る。その中心にあるのが、三木城跡の上の丸公園である。元は市街地部分も広く城郭(じょうかく)に含まれていたが、現在は本丸部分だけが残って、公園となっている。本丸の下には、今も古い町並みの雰囲気を残す道があるから、ゆっくり歩いてみれば、何か新しい発見があるかもしれない。城の下を流れる美嚢川(みのうがわ)のほとりも、心地よい散歩道になっている。

 秀吉と、毛利方についた別所長治(べっしょながはる)との攻防戦は2年近くの間続くが、頼みとしていた支城が次々に落ち、毛利氏による兵糧(へいりょう)の運搬も押さえられるに及び、別所長治は城兵の命と引き替えに切腹して、ようやく戦いは終わった。長治は今も三木の人々に愛され、毎年5月には「別所公春祭」がおこなわれているそうである。


根日女の里

 根日女(ねひめ)の里は、志染の西にある賀毛郡(かもぐん)である。上鴨(かみがも)、下鴨(しもがも)、三重、楢原(ならはら)、起勢(きせ)、端鹿(はじか)、穂積(ほづみ)、雲潤(うるみ)、河内(かわち)、川合(かわい)という十の里名が『播磨国風土記』に見えるが、これらは現在の加西市(かさいし)から加東市(かとうし)にかけての地域に当たる。これらの里を治めていたのが、根日女の父、許麻(こま)だったのだろう。

 根日女が住んだのは玉野の村と記されているから、玉丘古墳(たまおかこふん)がある場所の少し東に当たる。志染からは、直線で25kmほど離れているだろうか。玉野も玉丘も、現在は豊かな田園風景が広がる所である。里の西には玉丘古墳群、北西には山伏峠の石棺仏があって、このあたりが古墳時代に栄えたことがよくわかる。

 
山伏峠
山伏峠

山伏峠

 玉野の交差点の、南西にある丘陵の頂上付近が山伏峠(やまぶしとうげ)である。現在の県道ができる前は、この丘陵の上を通る道が街道だったようだが、今はサイクリングコースになっている。

 坂道を登ると、竹やぶと雑木に囲まれて3基の石仏が建っていた。どれも石棺の蓋(ふた)の内側に阿弥陀仏を刻んだもので、手前に建つ巨大な家形石棺(いえがたせっかん)の蓋に刻まれたものと、いちばん奥にある長持形石棺の蓋に刻んだものは、県指定の文化財である。

家型石棺に彫られた像

家型石棺に彫られた像

長持形石棺に彫られた像

長持形石棺に彫られた像

 今となっては、これらの石棺がどの古墳から掘り出されたものかはわからない。無傷のままで発掘されていたら、どれほどの成果があっただろうと思うけれど、その一方で、いかにも所を得たという風情の石仏を見ていると、失われたものと残されたものと、どちらに価値があるのかわからなくなってくる。

 石の表面に目を近づけると、鑿(のみ)の跡が残っているのがわかる。古墳時代のものと中世のもの、500年以上離れた石工の鑿跡が重なっているはずである。

 
玉丘古墳群
玉丘古墳を望む

玉丘古墳を望む

玉丘古墳

玉丘古墳

説明板

説明板

 田園風景が広がる中に小山のような姿を見せるのが、古墳群の中核、玉丘古墳である。周囲を取り巻く濠(ほり)には、蓮(はす)が茂り、花が咲き競う夏を思わせる。濠に沿った小径をたどることもできるが、森に覆われた古墳には、「玉で飾られた」という伝説をしのばせる所はない。墳丘には、葺石があったことがわかっているから、それが遠目には玉のように見えたのだろうか。光沢のある河原石ならば、そんなこともあったのではないかとも思えるが、それも空想の域を出ない。伝説はどこまでも夢の中の存在である。

 古墳群は公園として整備されている。そのうちには、石室や石棺が復元移築されたものもあるから、古墳の構造を学ぶには格好の場所である。