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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第94回:線路はつづく−古レールを再利用した鉄道構造物− 2018年1月15日

学芸員 鈴木 敬二

 

 

写真1 JR神戸線(東海道線)摂津本山駅
ホーム上家の支柱と梁に古レールが再利用されている。

 

 旅客、貨物の鉄道輸送を足元で支える役割をレールは果たしています。レールは摩耗が進むと交換する必要があります。列車の走行を支える役目を終えた古レールは、さまざまな目的に再利用されてきました。跨線橋や落石防護柵、踏切の防護柵など多彩な転用の事例があげられます。なかでも旅客がもっともよく見かけるのが、駅ホーム上家を支える柱として再利用される例ではないでしょうか。

 古いレールの側面には、レールを生産したメーカーや製造年月日などが刻印されています。わが国に鉄道が走り始めた明治期の前半にはレールはまだ国内で生産されておらず、イギリス・ドイツ・アメリカなど各国から輸入されていました。このような輸入品にはレール製造を発注した鉄道会社名が記される事例も多く認められます。このような刻印を読み取っていくと、その古レールをいつ、どの鉄道会社が、どの製鉄会社に発注して製造したのかがわかるのです。

 古レールの再利用は明治期に敷かれたレールの交換が始まった大正時代頃と伝えられ、その後は多彩な用途に古レールは使用されてきましたが、昭和30年代以降には、現在も鉄骨として通常利用されているH形鋼が普及したことなどにより、その利用は廃れていきました。今回のコラムでは、兵庫県内の各駅で再利用されている古レールを紹介するとともに、兵庫の鉄道の歴史を古レールの刻印から読みとって行きたいと思います。

 

写真2 JR神戸線(東海道線)摂津本山駅ホーム上屋梁に再利用された古レール
刻印=BARROW STEEL SEC166 1890 ・・・ S.T.K

 

 写真2はJR神戸線(東海道線)摂津本山駅(神戸市東灘区)のホーム上家梁に再利用された古レールです。刻印から英国のバーロウ社が明治23年(1890)に製造したことがわかります。一部判読できない部分がありますが、ここには製造月が記されたものと思われます。

 末尾の“S.T.K.”の3文字がレールを発注した鉄道会社を示していますが、このイニシャルの会社は山陽鉄道のほかに、三重の参宮鉄道、東京千葉間の総武鉄道などが考えられますが、地域的なことや年代的な事を考えると、山陽鉄道と理解するのが自然かと思われ、また甲子園口駅には山陽鉄道の社章が他メーカー製のレールに刻印されたものがあることなどから、このレールも山陽鉄道が発注した製品の可能性が高いと判断されます。

 明治初頭のわが国は英国の技術を導入して建設されたため、国内のレールも当初は英国から輸入しました。山陽鉄道の創立当時、神戸・広島間に使用したレールは鋼製英国型のレールを使用し、いっぽう広島以西の建設に際しては米国型レールを採用したことが伝えられています。

山陽鉄道は現在のJR山陽線のもとになる鉄道会社で、明治21年(1888)に神戸で設立されて同年中に神戸〜姫路間が開通。その後は徐々に路線を延ばし明治24年(1891)には兵庫県内の路線を完成させて岡山まで開通し、明治34年(1901)には下関まで全通しています。

山陽鉄道は、官設鉄道や他社に先駆けた独自の旅客サービスを考案したことが知られています。特にわが国最初の急行列車の運転(明治27年)を行い、急行列車にはじめて寝台車(明治32年)、食堂車(明治33年)の連結を行うなど、独自のサービスを導入して集客を図りましたが、明治39年(1906)に定められた鉄道国有法に基づき同年12月に国有化され、後の国鉄山陽線の元になりました。

 

写真3 JR神戸線(山陽線)舞子駅ホーム上家支柱に再利用された古レール
刻印“CARNEGIE 1896 ||||||||| HANKAKU”

 

 写真3はJR神戸線(山陽線)のホーム上屋支柱に使用された古レールです。刻印を読み解くと、このレールはのちにUSスチールに参画するカーネギー社(アメリカ)が明治29年(1896)9月に製造し、HANKAKUの文字から福知山線のルーツとなる阪鶴鉄道が発注したものであることがわかります。

 阪鶴鉄道は商都大阪と日本海側の港湾都市舞鶴とを結ぶ目的で建設された鉄道です。当時、京都から舞鶴・福知山・和田山方面への鉄道敷設をもくろむ「京都鉄道」と、鉄道敷設権を争うこととなり、その結果、阪鶴鉄道は現在の尼崎駅付近より三田、篠山近傍を経て、福知山に至る路線の免許を受け、一方の京都鉄道は京都より綾部を経て舞鶴に至る路線の免許を受けました。

 阪鶴鉄道起点側の尼崎〜池田間は、明治26年(1893)12月に「摂津鉄道」がすでに路線を敷設していましたが、阪鶴鉄道は明治30年(1897)2月にこれを買収し、順次路線を北に伸ばしました。明治30年12月に宝塚、明治31年(1898)6月には有馬口(現生瀬)、明治32年(1890)7月には福知山南口(現存せず)まで開通し、大阪と福知山を所要時間およそ5時間で結ぶこととなりました。

 舞鶴への鉄道敷設を政府より許可されていた京都鉄道は、ながく園部近傍より路線を延長することができずにいたため、政府は官設により舞鶴線を建設することとしました。

 

写真4 JR神戸線(山陽線)舞子駅
ホーム上家の支柱と梁に古レールが再利用されている。

 

 明治37年(1904)11月、官設舞鶴線(福知山〜新舞鶴間)開通と同時に、阪鶴鉄道も既存の福知山南口と官鉄福知山の区間を接続させました。官設鉄道舞鶴線は路線の経営を阪鶴鉄道に委託し、これにより阪鶴鉄道による大阪〜舞鶴間の列車の直通運転が実現しました。

 舞子駅に残されている古レールの刻印から、これらのレールはすべて阪鶴鉄道が路線敷設に着手する前年に米国の製鉄メーカーで作られたものであり、これらは現在のJR福知山線のルーツとなる、いわば記念碑といっても良いような歴史資料とさえ思われるのです。

 なお阪鶴鉄道のレールは、カーネギー社製の他に、やはりのちにUSスチールに加わることになるイリノイ・スチール(ILLINOIS STEEL Co.)の製品も確認されています(JR東海道線の甲子園口ホーム上屋など)。

 

写真5 JR神戸線(山陽線)曽根駅跨線橋に再利用された古レール(現存せず)
刻印“37 S(旧日本製鉄社章) 2602 |||||||||| O.H.”

 

 写真5の古レールは、JR神戸線(山陽線)曽根駅にかつて存在した跨線橋の鉄骨として再利用されたものです。官営八幡製鉄所をルーツに持つ旧日本製鉄(現在の新日鉄住金)で製造されたレールです。

 明治34年(1901)、北九州に官営八幡製鉄所が建設され、ようやくレールの国産化が実現しましたが、大正期までは国産品だけでは国内の需要に対応できず、わが国では引き続き欧米諸国などからレールを輸入しました。昭和になると八幡製鉄所におけるレールの生産量は増加し、また品質面においても輸入製品に劣らないものが生産されるようになり、昭和6年度以降鉄道省における使用レールは、すべて国産製品が充当されることになりました。

 また写真の曽根駅跨線橋のレールは製造年として2602と記されていますが、これは「皇紀2602年」に製造されたことを示しており昭和17年(1942)に相当します。旧日本製鉄製のレールは昭和15年(1940)以降、皇紀による年代表記が使用されました。また兵庫県内ではJR山陽線上郡駅などに2607年〔昭和22年(1947)〕の表記がみとめられ、これは戦後もしばらくの間は同様の年代表記がおこなわれたことを示しています。

 今回のコラムでは、旧国鉄路線のレールについて記しましたが、今後また機会を改めて、私鉄の古レールについても記してみたいと思います。