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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第90回: 黒い煉瓦(レンガ)の系譜−明治期の山陽鉄道の構造物−  2017年9月15日

事業企画課長・学芸員 鈴木 敬二

 

 

赤い煉瓦のアーチ橋〔梨ヶ原拱渠、下り線(JR山陽本線、上郡〜三石間)〕

 

 昨年の8月のコラムに引き続き今回も煉瓦の記事を書きますが、今回は特に煉瓦の色に注目したいと思います。煉瓦および煉瓦建築はわが国には幕末に登場し、明治期には建築や土木の分野で盛んに用いられましたが、大正期には鉄筋コンクリートにシェアを奪われていくことから、わが国が近代化への歩みを始めた時代を象徴する建築資材であるといえます。煉瓦はわが国に導入されると、洋風建築や鉄道・道路の普及とともにともに日本各地のいたるところに姿をあらわすようになりました。上の写真は上郡町梨ヶ原にあるJR山陽本線のアーチ橋の下り線側の写真です。

 JR山陽本線は神戸と九州門司を結ぶ鉄道幹線ですが、その起源は明治21年(1888)1月に設立された山陽鉄道という私設の鉄道会社が敷設した路線です。同年11月兵庫〜明石間、12月には明石〜姫路間が開通し、明治34年(1901)には神戸〜下関間が開通しました。当時の山陽鉄道は瀬戸内海航路の旅客船とライバル関係にあったことから、価格およびサービスの両面で競争状態にあったことが知られています。急行列車の導入や、食堂車・寝台車の連結などをわが国で最初に導入するなど、山陽鉄道が乗客に多彩なサービスを提供したことは有名ですが、その背景には瀬戸内海の船会社と激しい競争状態にあったことがそれらのサービス導入の契機となったといえるでしょう。

 

梨ヶ原拱渠(下り線)の内部

 

 「赤れんが」という言葉に象徴されるように、煉瓦は赤いものと一般的に思われがちです。しかし明治期に建設された建築の多くには、赤い煉瓦の中に黒い煉瓦〔焼過煉瓦(やきすぎれんが)〕が用いられて幾何学的な文様が形成されることにより装飾効果を生む事例が少なからず認められます。梨ヶ原のアーチ橋は土木構造物ではありますが、当時の建築と同様に赤と黒の煉瓦による多彩装飾が施されています。煉瓦石ともいわれた煉瓦の赤と黒を、三つセットで交互に繰り返して配置しているのは、山陽鉄道開通時に梨ヶ原のアーチ橋付近に設置された仮三石(みついし)停車場に因んだものと考える研究者もいます(写真2)。この赤黒の二色の煉瓦により明治23年(1890)に築かれたアーチ橋は、現在の山陽本線の下り線用に使用されています。

 

黒い煉瓦のアーチ橋〔梨ヶ原拱渠、上り線(上郡〜三石間)〕

 

 梨ヶ原のアーチ橋がある山陽鉄道(現在のJR山陽本線)上郡〜三石間は、明治37〜39年(1904〜1906)にかけて複線化工事が実施されます。この工事の際に煉瓦造のアーチ橋は北側に拡張され、現在の上り線側に使用されている部分が建設されます。この時にもアーチ橋は煉瓦により築かれますが、その外観は反対側の上り線側とは似ても似つかぬ、全面が黒い煉瓦により築かれてしまうのです。また煉瓦の厚さに着目すると、先に記した上り線の赤煉瓦1個は厚さが約7cmとわが国で最も分厚い規格のものであるのに対し、下り線の黒い煉瓦の厚さは5cm程度しかなく、同じアーチ橋という構造物でありながら、上下線それぞれを見較べると、様子が明らかに異なっている点に驚きを禁じ得ません。

 

弧状煉瓦を用いた梨ヶ原拱渠(上り線)のコーナー部の処理

 

 上り線側の黒い煉瓦の別の特徴としては、写真4に見られるようにコーナー部分を扇形の煉瓦(弧状煉瓦)を用いて丸い形状に仕上げている点です。煉瓦造の建築や土木構造物のなかで弧状煉瓦の使用例自体はさほど珍しいとはいえませんが、黒く薄い煉瓦の使用と、弧状煉瓦によるコーナーの処理がセットになっている点が、梨ヶ原のアーチ橋だけではなく、同時に複線化工事が行われた山陽本線上郡〜吉永間の煉瓦造の構造物に見られる特異な点であり、また山陽本線の他の区間でこのような特徴をすべて兼ね備えた橋梁は、今のところ見たことがありません。この黒い煉瓦造の構造物は明治30年代後葉に山陽鉄道が支線の建設や複線化工事に際して導入した新形式の構造物と考えられます。また「赤れんが」という言葉にあらわされるように煉瓦は赤いという先入観を持ってこの構造物をみた際に、それが煉瓦造と理解することさえ困難なのではないでしょうか。

 

兵庫岡山県境の船坂峠に向かって築かれた山陽本線の路線

 

 姫路方面から西へ進んできた山陽本線の列車は、上郡を過ぎるとそれまでの平坦な線区に別れを告げ、兵庫・岡山県境の船坂峠への登り道さしかかります。この区間は山陽鉄道敷設に際して最初の山岳区間といえます。上郡駅の標高は海抜約30mに対し、船坂トンネル坑口の標高は約130m、上郡からトンネル坑口までの距離は約10kmであり、概ね10‰(100分の1)の勾配を越えています。この100分の1という勾配は、山陽鉄道の初代社長である中上川彦次郎(なかみかわひこじろう)が路線の建設に際して許可した最も急な勾配でした。山陽鉄道が将来わが国の幹線鉄道となり、長大編成の列車が高速で運行する必要があることから、このような方針を固めたものと考えられます。その結果、上郡から船坂峠までは見上げるような高い堰堤が築かれることとなり、その堰堤が既存の里道および河川・水路を通過する位置には、煉瓦造の橋梁やアーチ橋が設置されることになりました。

 

山口県内の廃線跡で見つけた「黒い煉瓦」の橋梁〔堀川第1橋梁(旧JR大嶺支線、南大嶺〜大嶺間)〕

 

 梨ヶ原アーチ橋の上り線〔明治39年(1906)頃〕に見られるような黒い煉瓦の構造物は、同時期に建設された山陽鉄道の支線で見ることができます。写真6の堀川第1橋梁がある旧JR大嶺支線は、山陽鉄道大嶺線として山口県内の山陽本線厚狭〜大嶺間の19.6kmにわたって敷設されました。終点の大嶺付近にみつかった炭田から徳山の海軍練炭工場への石炭の輸送を目的として、明治38年(1905)9月に開通しています。小さい写真ではありますが、黒い煉瓦で築かれている様子や、弧状煉瓦によるコーナー部の処理の状況など、梨ヶ原のアーチ橋との共通点を見出すことができます。

 煉瓦そのものは単なる土の四角いかたまりであり、それで築かれた構造物なんてどれも大差がないという先入観をつい持ってしまいますが、煉瓦建築や構造物を詳細に観察していくと、それぞれに違いを見つけ出すことができます。ここまでに記したものも含めて、山陽本線(山陽鉄道)の橋梁に見られる煉瓦造構造物には複数の型式が存在します。そしてそれらの型式の違いは、その構造物が設置された年代を示すとともに、その路線が敷設された経緯を示すこともある貴重な歴史資料といっても過言ではないのです。