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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第88回:城郭談義(その23)「萩への憧憬A/宮本常一と城下町の文化誌」 2017年7月15日

学芸課長 堀田 浩之

 

 山口県の周防大島出身の宮本常一は、明治40年(1907)の生まれの民俗学者です。日本国中を歩いて各地の風景を見定め、そこに生活している人々から聞いた話をもとに、優れた民俗誌を執筆しました。先日も近年刊行された講演集を読んでいて、生活を成立させる単位を保障する“条件”という、これまで考えたこともないユニークな発想に触れ、実感をともなう“経験則”の存在に刺激を受けたところでした。

 因みに外界との結びつきがなければ、複数の世帯による集団生活が自立し得ないという前提に立てば、山村の場合は道路の維持が最低限の“条件”になるのだそうです。例えば、積雪による交通の途絶は悲惨な事態を招くことになりますが、そうならないためにも、雪踏み等をしてルートの確保をしなければならず、その際の労力の提供を可能とする10戸程度の世帯数が、どうしても必要であると述べています。また、離島の場合は男手が3人求められ、そうでなければ艀(はしけ)の接岸、物資の荷揚げ作業に支障をきたすといいます。この場合、若くて元気な男の労力でないと務まりませんから、もしも最低限の人員が揃わないとなると、島での暮らしを諦めるしかないそうです。

 そうした民衆の生活文化の実態に焦点をあてた宮本常一の著作の一つに、1960年代の見聞をもとに書かれた「私の日本地図 L 萩付近」(未來社)があります。公式の記録に残されることの稀な、話者の実体験をもとにした証言の数々は、これまで意識されることのなかった地域社会の本質を代弁するものであり、今後の地域の課題と真摯に向き合っていく上での、示唆に富む情報源だと私は思います。

 

「風情のある萩の城下町/街路の屈曲」

 

 さて、萩の城下町ですが、古風な屋敷と時を経た土塀の佇まいが、観光地特有の趣きを添えているのは周知のことでしょう。ただし魅力に満ちた景観もさることながら、宮本が注目した論点は、城下町の外の人々(萩藩の領民)がこの町に寄せた“憧れ”の感覚なのです。宮本の出身地(周防大島)は旧藩の領地であり、郷里の知り合いが萩へ働きに出掛けた昔話を聞いたものだといいます。男は大工仕事、女は女中奉公が多かったそうですが、毛利の殿様の居る萩の町を訪れることが、既に高揚感を伴う出来事であったようです。

 宮本の母も12〜3歳の頃、萩を訪れたことがありました。当時、山口に移り住んでいた士族の家で子守奉公をしており、萩にある先祖の墓参りに若様のお供をしたのでした。母の記憶によると、崩れかけた築地塀から黒猫が出入りする情景が心に残り、屋敷は草に埋もれて寂しいものだったといいます。それほど荒廃していたにもかかわらず、萩を実際に訪問できた母にとっては、強烈な印象を覚えたらしく、「侍は立ち去り、町人は立ち去っても、領内の百姓たちは後々まで萩に対してあこがれに似た心を持っていた」と、宮本も優しくコメントを寄せています。

 宮本自身、萩に行った時の不思議な感じを、「どうも誰にも話しかけたおぼえがない」と、回顧しています。いつもなら誰彼なしに話しかけて知人が出来るのに、そうではなかった・・・ 「私の頭の中に形成されていた まぼろしの萩をたしかめてみたいという気持でいっぱいだったのかもわからない」と冷静に自己分析する宮本でしたが、彼もまた萩への憧憬に戸惑っていたようなのです。

 一方、周防大島には「夏ダイダイ(長門みかん)」の果樹が数多く植えられており、宮本の観察によれば、大工仕事で出稼ぎに行っている家で見られることから、萩の物産を持ち帰った結果ではないか? とのこと。明治の士族授産で日本海側(長門)の萩で、屋敷内に「夏ダイダイ」の植樹が奨励され、今日に至っては萩の城下町の風情を代表する景色に定着していますが、萩の文化的なポテンシャルが人と物の移動を介して、“憧れ”の感情とともに瀬戸内海側へと広まっていく状況が読み取れます。そこに懐かしく由来を自慢する人影があって、好天の庭先には大きく実った「夏ダイダイ」が在る。この樹はなぁ わしが萩での仕事のおりに、屋敷の旦那さんから戴いたものでのぅ・・・

 

「侍屋敷/土塀から樹木がのぞく風景」

 

 明治維新以降、大きな社会変革により藩がなくなり、かつての武士も士族の名のもとに激動の時代を生きていくことになりました。姫路でも「武文彦自叙画伝」(当館寄託資料)の証言から、明治20年代の士族の生活を窺うことができます。屋敷内で桑を植えて養蚕をするなど、自給自足のライフスタイルを打ち出していたようで、庭内には食材や薬となる有用な樹木を植えていたといいます。また正月の準備には、乳母の実家(城下町の郊外)から届けられた掃除米(下肥提供のお礼)で餅つきをしており、ここでも人と物の細やかな交流が都市生活を支えていた様子が確認できます。城下町のポテンシャルは、周囲の人々を惹きつけてやまない求心力を発揮しますが、他方、町外からの積極的な協力がなければ自立すら困難であったと、あらためて気付かされるのではないでしょうか。

 明治新政府の成立に貢献した萩藩からは、要職を務めて東京に移住した成功者を数多く輩出しました。宮本の言説で興味深いのは、萩の場合は旧宅の保存がむしろ図られ、古風な町の風情が維持されていくというのです。おそらく、先祖に対する自家の顕彰の意味合いもあるのでしょうが、旧情を失わないことにこそ価値を見出しており、そこでは萩という故郷に託された、別種の“憧れ”の感覚すら介在しているように思えます。城・城下町の今後の研究においては、表面的な構造ばかりでなく、現象を誘引する内在の感覚にまで考察を及ぼすことになれば、更なる検証の道筋が開けてくるようで、その期待は大きく広がります。