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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第87回:城郭談義(その22)「萩への憧憬@/日本海側からの城郭事情」 2017年6月15日

学芸課長 堀田 浩之

 

 瀬戸内海(山陽)と日本海(山陰)の二つの海岸を有する兵庫県は、気候風土の異なる個性的な県土の二面性を有していると言えるでしょう。互いの相違点を意識しながらも、大きな地域連携の道筋を視界の内に収めていることに、兵庫県ならではの、特別な可能性が秘められているようにも思えます。ちなみに私の出身地は、島根県西部(旧石見国)の浜田というところですが、子供の頃から山陽側(広島県)とは違う風土の感覚をもっていました。日本海側は中国山地のある南が高くて、河川の流れ下る海沿いの北の土地が低いので、冬の気候でいうと、南の方の積雪が多くて寒いのです。一般的には奇異に感じられるかもしれませんが、ごく普通にそのような認識をしておりました。

 また近世城郭と城下町を編成するにあたり、通常は低位のフロント部分から城本体の高位へと、防御空間の奥行きを求める設計手法が一般的です。すなわち“南高北低”の土地柄では、北側の海に近い平地に町域、南側の高台の場に城域、を配置するのが自然な形と考えられますが、しかしながら実際には、方位として全く逆の展開を見せていました。山陰の主要な近世城郭である萩・浜田・松江・鳥取など、いずれも城下の北側の位置に城の主要部を置きます。これについては、以前から不思議な感じがしていたのですが、近年になって季節風を防ぐためではないか?≠ニ、ようやく回答らしきものへの思いを新たにしたところです。

 地元の人にとっては、実体験としての周知のことなのでしょうが、冬季の北西の季節風は頗る強烈で、風上に向かって容易に進むことはできません。そういう気候風土にあって、城郭内の住環境に配慮しつつ施設の維持管理が求められる場合、山陰の近世城郭のセオリーとしては、強風への対策が何より優先される課題であったと推察されます。そこでは、北面して季節風をまともに受ける南方の高台は不可であり、風除けの障壁となる北方の城山への選択・活用により、その南東方向の麓部分に、穏やかな自然条件下での曲輪を確保し、正面玄関としての大手を開く構成をとります。城郭の縄張の真相究明には、軍事スペックの検証に留まらない多様な考察の視点が、そこに用意されなければならないのです。

 

「萩城/対岸の城下町と遠望の城山」

 

 山口県(旧長門国)の萩城は、関ヶ原の戦いにより減封された毛利家の、再出発を期した本拠地となります。広島から移っての新城の構築です。今日でも萩・津和野は山陰観光の著名な場所であり、かつてのディスカバー・ジャパンの旅気分に誘われて、当時は急行で浜田駅から2時間。歴史好きな10代の私にとってまさに憧れの探訪先でした。

 幕末・明治維新に活躍した有名人の面影がただよう萩。そして古風な武家屋敷が数多く残る城下の散策は楽しいもので、歴史の舞台を追体験できる夢のような時空が味わえました。津和野での私個人の観光土産は確か森鴎外の肖像額だったと記憶しますが、萩では印刷された城絵図を買い求めました。私の記念すべき初めての城郭グッズです。絵図に描かれた複雑に屈曲した城塁と櫓群の配置に圧倒され、その意匠の一つ一つに意味があるのかと思うと、防御のための空間デザインの密度に或る種の凄味と美しさを覚えました。

 

「萩城/天守台の背後に城山」

 

 城下町の北西端の指月山を背負って、萩の近世城郭は構築されました。城山の頂には、所謂“詰丸”としての曲輪が用意されていますが、防御施設としての実用性には向かず、もっぱら山麓に石垣と堀割を巡らして、本丸・二の丸などの主郭部を広げております。本丸の南西隅には天守台が残され、砂地で足元が脆弱であったためか、稜線の緩やかな曲線が印象的です。往時はこの上に5重の壮麗な天守建築が立ち上がり、見る者に当城の威勢を抱かせたことでしょう。ただし、私としては城山の山頂ではなく、麓に所在する天守に対して、“何となくの違和感”を寄せていたのです。

 天守は城の最も重要な施設であることから、城内にアプローチする進行方向の最終的な到達の場に所在するものと、“何となく”イメージしていたのです。したがって、萩城では最も深奥の空間を呈する城山の上に、天守が当然求められるべきものと思っていましたが、実際はそうなっておりません。山麓の本丸のフロント部分に天守が低く構築されるということは、何より天守自体が城下から目立たないだけでなく、天守を置かない背後の城山の存在意義が問われてきます。最終拠点としての防御施設を完備しない城山には、いかなる役割が託されていたのでしょうか?

 今となっては、いろいろ想像の翼を広げて、城郭史を探訪する旅に出かけてみることもできます。城山の山頂部に敢えて天守めいたものを構築するとして、さほど大型の建造物など望める筈もありません。悪天候の影響をまともに受ける場所(山頂)での、建造物の保守・管理はかなり大変です。となれば、毛利家の旧城である広島城で培った平城の城郭スタイルを、萩城の空間に正統に受け継ぐ形での山麓天守の選択肢が、にわかに現実味を帯びてきます。近世城郭の定番のイメージが、全国どこでも姫路城と同じ天守風景(山頂の建造物)により演出される必要はなく、萩城では遠望する城山の山容自体が、当地の風土に似つかわしい“城”であることを、周囲に悟らせる格好の対象でもあったのでしょう。山であればこそ、守城側の藩の立場ではそこからの視界が利きますし、一方の仰ぎ見る領民にとっては、遥か遠くからの城主の視線をいつも感じ取ることができました。見慣れた光景の中に、歴史の真相がそれとなく隠されていたというわけです。