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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第84回:城郭談義(その20)「小学生に教わる/その偉大なる観察眼」 2017年3月15日

学芸課長堀田 浩之

 

 小学生の話を聞いていますと、時に、予期せぬ新しい発見をすることがあります。小学生は観察の対象を先入観のない素直な目で見ており、ちょっと大人では気の付かない問題点を指摘してくるのです。もちろん城を研究していくには、詳しい知識を得ることも大切ですが、まずは個々人の感性の赴くまま、じっくりターゲットと向かい合う自由な想像の時間が、子供たちに用意されなければならないのでしょう。

 

 さて姫路の子供たちは、お城をスケッチすることが図工の定番の課題となります。絶好の題材がすぐ側にあるのですから、考えてみれば羨ましい限りです。それこそ例年、数々の傑作が誕生していくのですが、しっかり対象を見て描いていることに感心させられます。例えば、大天守の最上の屋根から地上へと下りていく線を、彼らの多くは見逃しません。これは鯱に取り付けられた避雷針からの電線であって、空中に細く走っている実景をそのまま画中にも記録するのでした。大人でも、目の良い方は見えている筈なのですが、実際に姫路城の風景画に描き込むことは、まず稀と言えるではないでしょうか。

 

 歴史物語を連想させる絵のモチーフとは縁のない、付加的な現代の設備ですので、画面から無意識のうちに除かれたとしても、とくに問題はありません。しかしながら、見えている筈なのに、存在していることに対する意識が至らない現象が、私にはとても興味深く思えるのです。ひょっとして私たちは、「姫路城の全てが見えていない!」という根本の段階に、気付いてさえいなかったのでは・・・?=@当座の関心の都合に応じて、実のところ、見えるものの範囲を自動調整していたような、そんな反省の思いが胸を過ぎります。

 

姫路城/大天守最上の屋根から下りる電線が見えますか(北東方面より)

 

 姫路城が世界文化遺産に登録されたのは、今から20年以上も前の1993年12月のことでした。国内での評価に留まらず、地球レベルでの名声が広まるといった、漠然とした期待感が高まってきたことが思い出されます。そんなおり、当時の小学生も近未来の姫路(城と街)を描いており、偶然にもその中の一枚の作品に出合いました。不思議なことに、画面中央の姫路城天守が黄色く塗られているではありませんか! その斬新なイメージと色彩感覚に、まずは圧倒されてしまったのです。

 

 この絵は、当館で開催された特別展「城郭を描く」にも出品させていただいたので、中学生になった絵の作者に当時のことを尋ねてみる機会がありました。さっそく黄色い天守にした理由は何かあるの・・・?≠ニ、気になっていた質問を投げかけてみました。すると、回答は単純明快で、そのように見えたので・・・≠ニのこと。デザイン上の特別な趣向などありません。その子にしてみれば、毎日目にしている天守を、土埃のついた色合いのものとして、見たままの印象を素直に表現したのでした。考えてみれば、〈白鷺城〉と別称されているとはいえ、その表面の壁が完璧な白さを保持しているわけではありません。知らず知らずのうちに、私たちは現実の姫路城ではなく、〈白鷺城〉のイメージの方を優先させて対象を見ていたのではないでしょうか。

 

 その時、“城郭を認識すること”について、たいへん重要な問題点に気付かせてもらったような、何やら爽快な風が吹き抜けていった清涼感を、私は今でも覚えています。

 

 

姫路城/平成修理前の大天守(北西部)※大天守(左)の壁に土埃が付着しています

 

 当博物館での或る日のこと、親子連れの来館者がありました。レファレンスのコーナーで、しきりに城郭関連の書籍をお探しのご様子。事情を聞いてみると、海外生活をしていたためか、帰国してから、日本の歴史文化にたいする知識について、少々不安があるとのことでした。その子が〈城〉を見て、〈寺〉のようなイメージをもっていたことが判って、親御さんの方では、にわかに焦りを覚えたものと察せられます。

 

 ただし、ここでの対象は天守です。おそらく、一般家屋とは様相を異にする天守建築を見て、〈寺〉の醸し出す雰囲気を感じ取ったのでしょう。屋根の重なる木造の高層建築といえば、五重塔など寺院建築の代表的な様式が思い浮かびます。また、天守建築に至る過程においては、楼閣などの仏殿を介した系譜を認めることができ、火灯窓の意匠が継承されること自体、天守に寺院建築の色濃い影響を指摘することができるのです。実のところ、その子は正当に対象の個性を見極めていた、とさえ言えるのではないか・・・

 

 親御さんには、そういった建築様式の観点から説明を加え、その子の感覚が間違っているのではなく、むしろ鋭い感性のもとでの、きちんとした認識であることを申し添えておきました。きちんと、納得していただけたかなぁ・・・

 

姫路城/備前丸から見た天守外観 ※天守上層の狭間からここへの視界は利きません

 

 さらに、博物館での別の日の出来事。小学生の団体見学のおり、縮尺15分の1の姫路城天守模型を前に、何やら先生に難しい質問をしている子供がいました。ガイドブックにも記載されていないような特殊な観点なので、先生も当惑されており、たまたま通りかかった私が代わりに事情を聞くことになったのです。

 

 その子の言い分は、大天守の壁に開いている狭間の機能を問うものでした。とりわけ、二重目以上に配置された狭間は、下層の屋根に視界を閉ざされて、本丸などの下方への迎撃が行えないことに、根本の疑問を抱いているようなのです。優れた防御力を誇る姫路城の評価とは異なる検証結果に、強烈な違和感を覚えているらしく思えました。

 

 確かに、屋根の上に居る敵兵への狙いは付くかもしれませんが、そんな偶発的な局所での軍事機能に満足していては仕方ありません。その子の言うとおり、主戦場であることが予想される下界への防御支援が全く無視されているようで、これで良いのか?≠ニ、にわかに思考回路が混乱してきます。その子はあたかも映画のシーンにあるように、想像力をたくましくして模型の中へと身を委ね、そこでの戦闘場面を真剣に考えてみたのです。その結果、今まで誰も指摘しなかった現象に気付くことになります。虚空に向けて開かれた狭間の先には、いったい何が見えてくるのでしょうか。

 

 これまで、私もそんなことを考えたことがありませんでしたので、本当に驚きました。小学生に完敗です。その時、私に言えることは、大天守の狭間は必ずしも実効性を伴うものばかりではない≠ニいうことでした。単なる軍事施設にとどまらない、新しい城郭が登場してきたということでしょうか・・・。以来、“城郭の軍事性”についての真摯な考察を私は行うようになりました。その子への回答案は、現在も作成中です。