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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第79回:城郭談義(その18)「城を哲学するA /見えないものの彼方に!」 2016年10月15日

学芸課長堀田 浩之

 

 明治23年(1890)に来日したラフカディオ・ハーン[のちに小泉八雲と名乗る]は、日本の風景や叙情に深い関心を寄せ、外国人ならではの鋭い観察力を駆使して数多くの文芸作品を残しました。近代化に向けての後戻り出来無い社会変革が進んでいく中、古き良き日本の伝統が最後の煌めきを保っていた頃にあたります。異文化に触れたハーンの眼差しは頗る優しく、例えば悲しい場面で見せる日本人特有の微笑みについて、その情感を代弁するかのような心温まる分析を行っています。そんなハーンの文章の一つに、神社の空間の特異性に着目した興味深い著述がありました。

 それによると、京都でハーンが体験した神社は、入口から荘厳なアプローチに導かれて中枢へと進んでいくのですが、参道の階段を登りつめた先の目的地は、白木造りの小さな祠が在るばかりの“驚くべき空虚さ”に包まれており、その霊妙さに感銘を受けたハーンは、“無に至る階段”であるという、刺激的な文言での情景描写を試みています(講談社学術文庫『日本の心』所収「旅の日記から」)。そして、唐突かもしれませんが、日本の〈城〉の空間編成についても、同じことが言えるのではないかと私は思うのです。〈城〉の深奥部に位置する“守られるべき対象”には、一体何が所在しているのでしょうか。

 荘厳さを漂わせた神域に足を踏み入れ、急勾配の階段を登って登りつめる。おそらく、その先に求めるべき空間の根源を目にすることが出来るのだろう・・・、という期待感は見事に裏切られます。ここで大事なことは、神社での“守られるべき対象”を神霊の依り代としての御神体、及びそれを保護する社殿だとすれば、それは存在を意識させる仮の状況設定なのであって、高台の境内に至る参道でのプロセスとは、明確に異なる空間認識と環境の整備が看取されるのでした。守られているという意識が働いていれば、結界された空間内はたとえ空虚なものであっても全く問題はないのです。むしろ、何もないことでの想像力の行使により、その先に無限大の空間の効用が感じ取れることになります。

 城跡を訪れて一番奥の本丸へと至り、意外と何もない空間の広がりを目にして、ハーンの神社での印象と同じ感慨を抱いた経験が多分あると思います。要は“無”の解釈にもよるのですが、具体的な物質(モニュメント)ではなく、〈城〉に付帯する由緒(ストーリー)という目に見えないものを、私たちは〈城〉の本質の対象として、イメージ形成の過程で実存させていたのではないでしょうか。

 

「赤穂城/本丸の天守台と池」

 





「赤穂城/石垣上から本丸内の天守台を見る」

 

 赤穂城の本丸には、天守台が用意されています。まさしく、天守を築く資格を保証するために、土台のみが予め設定されているのですが、当然のことながら、その上に具体的な形状を有する建築物は存在しません。赤穂城の中枢を象徴する本丸内の天守には、どこか“空虚さ”が漂います。しかも、 この城の天守台は不思議なことに、本丸外からは全く視界に入ってこないのです。高台に城地の中心部を求める立地のスタンダードにあって、そもそも千草川の河口デルタに選地を求めた赤穂城は、姫路城のような高低差による奥行感(各曲輪の一二三段の編成)の構図など望める筈もありません。





 実のところ、江戸幕府の成立から半世紀を経て、〈城〉の意味するものが劇的に変化していたのです。江戸時代の〈城〉は、軍事施設ではありますが、それは臨戦態勢での仕様ではなく、あくまで平時運用に留まる施設展開でした。したがって、〈城〉の現有の建造物を以て、戦闘場面を仮想したシミュレーションでの評価に終始するのでは、〈城〉の実情とはかけ離れた結果を招いてしまいます。幕府に〈城〉であることを公認され、以後の恒常的な維持管理が課せられた近世城郭は、軍事行使の資格を有する一応の施設機能は備えつつも、好き勝手な実戦使用は極力避けられたのであり、まさに“戦わない(戦えない)”ことを条件に存在が許される対象なのでした。泰平の時代にあって〈城〉が生命力を保つ前提には、“フィクション”としての特殊な観念操作が働いていたように思われます。

 赤穂城外からは、本丸はもとより天守の存在など〈城〉の枢要部は全く確認できません。むしろ視界から閉ざされたということは、別な感覚での〈城〉の深奥性を巧みに演出しているとさえ言えます。この時代の〈城〉の新規構築は稀少であり、軍学で研究された築城理論を試す機会すら恵まれていませんでした。おそらく赤穂城は、砲術戦に対応した最新の西洋城郭の形が現地採用されたものと推察され、さればこそ、鋭角・鈍角を多用した稜堡様式の作為の縄張が目を引く一方、本丸内の天守は砲撃目標とならないよう、あたかも存在しないかの如く外部から隠されたのです。リアルな軍事技巧の“ノンフィクション”が要因となって、日本の近世城郭に込められた価値観との根本的な違いを、明確に浮かび上がらせたのであり、ここでの天守の意義は、周囲に城主の威光を見せつけるための宣伝用のシンボルではなく、〈城〉であることを城主が確認するための、内発的な心のアイテムの中にこそ、求められたのではないでしょうか。

 本丸内でしか目にすることのできない赤穂城の天守は、〈城〉であることを保証するための、御殿の最奥に収められた施設物件ということになります。建築物のない(したがって外部からの視線を集めることのない)石垣ばかりの天守台の上に立った時、そこから何が見えるのでしょうか。御殿や城塁の向きとは平面座標を異にする“空虚な”天守台ですが、その北側先の真正面には、城主の浅野家菩提寺である花岳寺が位置します。いわば、〈城〉を象徴する心性の基軸をこのラインが構成・体現しているわけで、見えない対象であった天守が、それでも不要とされることなく〈城〉内での存在感を保ち続けている理由にも、私は温かな考察の眼差しを向けていきたいと思います。