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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第78回:城郭談義(その17)「城を哲学する@/存在感の本質を問う!」 2016年9月15日

主査・学芸員堀田 浩之

 

 城とは何か?≠ニいう、根本の問題について考えてみます。当館の隣の姫路城を参照すれば、今更何をか言わんや≠ニ思われるかもしれませんが、それは、イメージの定型化が図られた段階の、一つの時代の形態(近世城郭)なのでありまして、ここでは初心に立ち返り、城郭が成立するための存在感の意味を、問い直してみたいのです。

 まずは、〈城〉であることの普遍的な特性について整理しておきましょう。もちろん漢字の解釈[土を素材とした構築物(内と外を区分する)]を介して、構造面の判りやすい感覚による定義付けも可能なのですが、そうした物質的な印象に加え、今回は“守られるべき対象の概念化”という、少しこだわりのある表現で捉えてみたいと思います。

 外敵から「守りたいもの」への意識が生まれた時、人々は防御施設を構築するなどして、保安に向けての意思の形をその対象に特定することになります。ただ単に仕切られただけの〈空間〉では、〈城〉を成立させることはありません。そこに安寧の願いを求め、それを保証する作為の要件が伴っているかが、現象面での必要条件となります。たとえば、結界を形成する〈施設〉が、標示程度の概念的なものであったとしても、不可侵の機能を立派に有するものに対しては、既に〈城〉としての意義を見出すことが可能です。

 かつて、テレビアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」を見ていた時のこと(もう30年以上前の話です)。今でも心に残る興味深い場面との遭遇がありました。そのシーンでは、鬼太郎の体を乗取って姿を現した妖怪が、漁村の人々を追い掛けていくのですが、目玉おやじに率いられた村人は急ぎ高台の鎮守社へ逃げ込みます。参道の石段を登っていく妖怪が山上の神社の境内に至ろうとした瞬間、何らかのバリアが張られていて妖怪は立ち入ることができません。そこで、目玉のおやじは村人を励まします。「皆の衆!神様が守ってくださっている。ただ集中して祈るのです」と・・・

 やがて、社殿が輝いて中から神様が出てきます。無事に妖怪を退治し、鬼太郎も助かるのですが、外敵から地域が守られるというのは、もしかして、こういう現場状況での心象風景なのではなかったのか?と、その時、妙に納得した気分になりました。私の思い浮かべる〈城〉の根源的なイメージの始まりです。ここでは信仰対象の霊威によって守られた〈空間〉への意識が、〈城〉としての存在感を成立させる前提となります。地域の人々の暮らしを温かく見守る場所(寺社地)が、時として〈城〉の機能を備えることがあるわけで、〈城〉を派生させる前提には、それこそ多様なプロセスがあったと言えるでしょう。





 神社と〈城〉の構造は、どこか似ています。まず、守るべき中心域(境内)があって、それに向かって大手道のような、アプローチとしての導線(参道)が引かれます。そして、入口部分には進入者を制止するかのような、冠木[かぶき]門の形態をとるゲート(鳥居)が置かれ、内外の結界を表象するといった具合です。

 遠くからでも人目に付く鳥居の象徴的な立ち姿が、〈空間〉内へと導くルートを限定し、それ以外からの不用意な立入りを抑制する、禁足地としての神社の佇まいを示唆してもいます。もちろん、玉垣などの簡易な構造のパーテーションが施される場合もありますが、それは禁足地であることの注意を促すためのもので、やはりそこには、神社境内での想定外の行動を憚る特別な精神性が介在しているように思われます。さしたる物理的な障壁がなくとも、内部〈空間〉の不可侵性が保障される〈城〉と同趣のイメージは、生活文化に起因する意識レベルのもとで、確かに〈城〉を成立させていることになります。鳥居の脇を押し通ることは可能ですが、敢えてその気を起させない価値観こそが肝要なのです。

 

「姫路城/鳥居先門」館蔵:高橋コレクション

 





「安土城/大手道」山上へ誘う直線道

 

 安土城の大手道は、山麓から一直線に立ち上がります。主郭部へ向かう大切なルートを折れのない単純明快な導線とすることに、軍事要塞らしからぬ違和感を抱きつつ、どこか神社の参道か山岳寺院の中を歩いている雰囲気を漂わせています。しかるに、実戦場面のシミュレーションをここで行っても、あまり意味はありません。織田信長の築城意図を見極めた上での、安土城の正当な評価が何より求められるのです。一般の観覧を許可したり、御神体の石を置いて拝ませたりした信長のことです。穿った見方かもしれませんが、自分に想いを寄せる人々にご利益をもたらす新趣向の寺社地として、トップモードの天守建築を駆使した居城との融合を図ったものとは、考えられないでしょうか。

 安土山南麓から北上する大手道をまっすぐに伸ばすと、その先は天守ではなく、なぜか二ノ丸の信長廟へと概念上の視線が到達します。敢えて天守へのヴィスタを避けたのか、はたまた人々の意識を、二ノ丸に所在する新たな崇敬の対象に集めたかったのかもしれません。残念ながら安土落城後の動静はよくわかっておらず、相変わらずの「藪の中」状態ですが、信長の事跡を後世に顕彰する上でも、古城でありながら(あえて古城の佇まいのまま)、然るべき歴史の記憶を伝承するための、跡地の環境整備がなされたものと推察されます。安土城の大手の一本道に、もしも寺社地と同じ参道の印象を見出せるとするなら、この城に託された存在感の本質を勘案しつつ、遺構に込められた空間概念の検証が、再度求められてくるように思われます。大手道の両側に立ち並ぶ区画を、武将の屋敷地と伝承する今日の言説についても、真摯に考え直してみれば、寺院の塔頭施設を〈城〉の雰囲気に仕立てたシナリオの中で、巧く脚色したものなのかもしれません。

 参道は神社境内において、マニュアル通りの順路を用意してくれます。元来が道を外れる意識はありませんから、それに従って奥へ奥へと導かれていきます。回遊式庭園の自由な設定とは違いますので、その方向性は一本のルートに限定され、寄り道せずに最終目的地へと到達する筈です。ただし、“その先は?”と更なる想像力を働かせた場合、果たして明快な回答を用意できるのでしょうか。そして、究極の“守られるべき対象”は、人々の脳裏にどのような概念化の作用を及ぼしていくのか・・・。〈城〉の入口と到達点とを結ぶストレートな参道(大手道)の構図にあって、一方通行の強烈なイメージに視界を閉ざされたまま、周囲や背後の存在に思いを巡らすことなく引き返してしまうのは、やはり残念な気がしてならないのです。