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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第77回:神戸・北野煉瓦(れんが)めぐり 第2回 2016年8月15日

主査・学芸員鈴木 敬二

 

 兵庫県立歴史博物館主催の見学会・歴史の旅「竹中大工道具館と北野周辺を歩く」が平成28年5月13日(金)に開催されました。歴史の旅では新幹線の新神戸駅付近に新築・移転した竹中大工道具館を見学した後、明治大正期の洋風住宅が立ち並ぶ北野町山本通界隈(いわゆる北野異人館街)を散策しました。

 今年4月のコラムでは北野町に残る木造洋風住宅について、壁面の仕上げを中心に記しました。今回は北野町に見られる煉瓦の構造物について記します。明治期のわが国において、鹿鳴館に代表される煉瓦建築は明治期におけるわが国の西洋化・近代化のシンボルとなっていました。煉瓦は建物そのものだけではなく、建物を支える基礎やそれを取り囲む壁や塀など、近代に新たに築かれた街路の隅々に用いられました。北野の町並のなかで、いわゆる異人館は徐々にその数を減らしつつありますが、それらと同じ時代に築かれた煉瓦の構造物は、ひっそりと粘り強くその痕跡を留めているのです。今回はその一例をご紹介します。

 

◆ 写真1 フランス積みの煉瓦の塀

 

煉瓦の積み方

 煉瓦の積み方のなかでも一般的に見られるものとしてはフランス積みとイギリス積みがあります。上の写真はフランス積みの例です。積み上げられた煉瓦の同じ段に、煉瓦の短辺(小口)と長辺(長手)が交互に現われるような積み方です。コーナーの部分には普通煉瓦を縦半分に割った形の「羊羹(ようかん)」と呼ばれる煉瓦を入れて、塀の端の面(つら)を揃えています。

 上の写真の塀は御影石の土台の上に赤煉瓦をフランス積みにしています。上3段は煉瓦を逆階段状に積んでおり(持ち送り)、最上部には白い御影石の笠石が載せられています。新築された当時は煉瓦の赤と御影石の白い色とが鮮やかなコントラストをなしていたものと考えられます。この塀の中の異人館はすでに取り壊され鉄筋コンクリート造のマンションが建てられていますが、このフランス積みの塀だけは現在も保存され、内側にかつて存在した明治期の洋風建築の面影を現在に伝えています。





◆ 写真2 煉瓦の目地の仕上げ例(山目地)

 

 一方こちらは、煉瓦の長辺(長手)ばかりの段と短辺(小口)ばかりの段が交互に現われるように積まれており、イギリス積みと呼ばれます。北野界隈を散策してみたところ、煉瓦の積み方はイギリス積みが多数を占めており、全国的に見てもイギリス積みは一般的な積み方といえます。

目地(めじ)の種類

 煉瓦の建物を築く時に、煉瓦を単純に積み重ねるのではなく、モルタルを用いて煉瓦どうしを「接着」します。そのモルタルの部分を「目地」と呼び、赤い煉瓦の隙間に見られる白いラインがそれにあたります。目地は煉瓦を接着するという機能を満たせば良いのでその表面を平滑に仕上げられるものが一般的です(「平目地」と呼びます。)。しかし目地は煉瓦構造物に装飾効果をもたらすという機能も持っています。目地の部分を左官職人の鏝さばきによって立体的に仕上げることにより、建物表面に陰影をもたらす効果があるものと考えられます。写真(写真2)に見られる目地は、中央に山形の稜線を付けるように仕上げをしています。目地の断面形が山の形を呈することから「山目地」と呼ばれ、中央部に稜線があるため、平目地と比べて目地に影が生じて立体感が感じられます。





◆ 写真3 覆輪(ふくりん)目地の例

 

 上の写真の目地は「覆輪目地」と呼ばれ、目地の断面が半円形になるように仕上げられています。四角い煉瓦で構築された構造物に、丸みのある覆輪目地を組み合わせることにより、煉瓦構造物自体がボリュームと柔らかみのある外観を呈するように感じられます。

 煉瓦造の構造物は、一見どれも同じようなものに見えますが、個別の構造物を細かく観察していくと、一つ一つが異なる顔つきを持っていることがわかります。見れば見るほど意外性のある発見があることが煉瓦の魅力といえるでしょう。





◆ 写真4 煉瓦の「平」に押された刻印

 

煉瓦の刻印

 煉瓦の上下の面を「平(ひら)」と言います。煉瓦を積む時に通常は「平」が隠れてしまうため、この部分を見る機会は稀です。しかし「平」には煉瓦造り職人が煉瓦を成形する際の工具の痕が残されていたり、煉瓦会社の社章などが刻印されるなど、煉瓦の製作技法などの情報を得るのに貴重な情報が隠されているのです。煉瓦の刻印は特定が難しいものが多いのですが、この煉瓦に押された×印の刻印は大阪の岸和田にある煉瓦会社の社章と考えられます。明治期の神戸近辺では、煉瓦は岸和田や貝塚、堺など大阪府南部の煉瓦会社の社章の刻印がよく見受けられます。





◆ 写真5 溝の底に敷き詰められた煉瓦

 

変わり種の煉瓦

 北野の町の散策中、さらに目線を下に向けて歩いていると、道路の側溝の底一面に煉瓦が敷き詰められているのを見つけました(写真5)。溝の底に「平」を上に向けた煉瓦が2個、並列させられるように敷き詰められていました。素掘りの溝と比べて雨水などがスムーズに流れるように、溝底に煉瓦が敷き詰められたものと思われますが、特筆すべきはこの煉瓦の寸法が通常のものとくらべて明らかに大きいことです。

 上の写真の塀に使用されている煉瓦は長辺21.5cm×短辺10.2cm×厚さ5.0cmと、明治後半の関西に流通した標準的な規格に近い寸法のものでした。これに対し溝底に敷かれた煉瓦は長辺25.0cm×短辺15.0cm。厚さは測ることができませんでしたが、当時の並形煉瓦に対して長さは約1.2倍、幅は1.6倍もある特殊な規格の大型煉瓦が用いられていることがわかりました。

 また通常の煉瓦は「平」の部分に刻印が押されることが多いのですが、この大型煉瓦は「平」の部分をどれだけ探しても刻印を見つけることができませんでした。通常、刻印は人目に触れない「平」に押されることが多いのですが、溝底に敷かれる煉瓦は「平」が平素より人目に触れるため、敢えてその部分に刻印を押さなかったのではないでしょうか。そういう意味でもこの大型煉瓦は溝底に敷き詰めるためなどの目的で特に誂えられたものと考えられます。

 このように神戸北野山本通界隈では、多様な煉瓦構造物に出会うことができました。国際的な港湾都市として開発が進んだ神戸の町と港を見下ろす場所に西洋の商人達が住宅を構えた北野付近では、宅地を造成し住環境を整えるために数多くの煉瓦が投入されました。木造の洋風住宅とともに保存された赤煉瓦の構造物もまた、明治期を中心とした神戸の町の佇まいを現在に伝えているのです。