トップ > 学芸員コラム れきはく講座

学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第60回:城 郭 談 義(その14)「凸凹(でこぼこ)の事情 〜城山のレトリック〜」 2015年3月15日

学芸員 堀田 浩之

 

 城と言えば「山」を連想される向きも多いと思います。そこに「山」が在るということは、田んぼの広がる低地の生活環境とは趣を異にし、地形の「高まり」によって派生する出入の困難な空間特性を、むしろ城地に相応しいポテンシャルへと、「山」は力強く導いていくのでした。大地から立ち上がる巨大な凸凹の壁が山上への通路を塞ぎ、天然の城塁のイメージすら想起させる「山」。周囲から親しみと威厳をもって仰ぎ見られる、その地域の精神的な拠り所としての眩い存在感を、私たちは常に意識することになるのです。

 また、麓に平時の居館、背後の城山を有事の軍事拠点に想定する空間構造は、城郭史の言説で提示される定番のモデルとして、よく知られているところです。あらためて具体的な立地をイメージしてみれば、低所を見下ろして戦闘に臨める高台に依拠した方が、軍事機能の効用は当然のことながら有利に働くのであり、城山が自身の存在を主張することで初めて、空間に攻守のための秩序と作戦マニュアルが生まれるのでありました。自然地形の山塊の中に、人文環境としての「城」という別次元の認識対象が生まれ、そこから意思を持ったダイナミックな歴史の個性が展開していくわけです。

 たつの市の鶏籠山は、揖保川の西岸に佇む穏やかな山容が印象的で、山上部に織豊期の石垣遺構や削平地(曲輪)等が残るほか、その南麓には江戸時代の龍野藩の体面を整える城郭施設(塀・櫓・門など)を造成していました。ここで山麓に限定された人工の構築物を、近世の龍野城の実体の全てであると見なしてしまうと、背後の鶏籠山への視線が俄に閉ざされてしまいます。幕府による城郭管理の対象としては、おそらく麓の諸施設が現行の城郭構成要素となるのでしょうが、城郭であるための本質の空間は、むしろ背後の古城も含めた山容の全体であると、この際大胆に捉え直しておきたいところです。麓城の背後に続いているのは単なる裏「山」ではなく、麓城の数十倍規模で山中に奥行きを用意した潜在的な「山」城に他ならないのでした。

「龍野の城山(鶏籠山)と麓城を俯瞰」
「麓城から見上げた城山(鶏籠山)の景観」

 よく見れば鶏籠山の表面は凸凹しており、鉢を伏せたような簡明な円錐状の「山」ではありません。実は一つの谷筋を抱え込むように、麓城の両端に向けて山上から2本の尾根が降りてきており、つまり鶏籠山の山上と南麓は、上下を結ぶ谷と尾根の天然のラインで、相互に関連性を持たせた囲郭空間で構成されていたことになります。その城郭に託された使命を表現する場合には、どちらの向きに軍事的な関心を示すのかといった防御正面≠想定した上で、全方位の要塞化に及ばない部分施工に配慮した築城論が、一般的に顕著な傾向として窺えるところですが、山城の縄張の具体化にあたっては、城地を用意する「山」自体のスタイルを前提に、設計を進めていく必要があるのでした。差し詰め「山」の凸凹は、既に自然界から与えられた土塁や堀の機能を見立てることが可能なのです。

 城郭のインフラ整備としては、水の確保は切実な問題であり、籠城戦で給水手段を絶たれて迎える落城の憂き目は容易に想像されます。「山」で生きていくためには、どうしても水が必要です。したがって、水源となる谷筋を城内に取入れることは当然の対策と言えるでしょう。その際、尾根筋が分水嶺としての境目にあたるので、「山」の斜面を上下に走る凸凹を介して一つの水系を囲い込みつつ、同時に城の内外を峻別する軍事的な障壁機能をも付託することになるのでした。龍野城では麓城の南西方の尾根筋の城外側に、大規模な竪堀と土塁が施されていますが、そこには自然地形による結界を強化・補完する意味合いが看取されます。つまり背後の城山の存在を無視して、好き勝手な麓城の縄張が考案されるのではなく、先行する「山」の凸凹に規定された城郭づくりがなされたと言えます。

 確保された水資源をもとに、囲郭された城内空間に一つの生活環境が完結する。城郭の原点の定義を、守るべき生活環境の確保と防御の意思≠ナあると見なせば、まさにここで示した事例に通じるのであって、「山」を介した地域社会の生業のスタイルが、城郭空間を成立させる上での根本の前提条件を準備していたと評価できます。人間界の生活環境に相応しいものへと「山」を整えること。文化事象をベースとした豊かな城郭観を以て、「山」の凸凹に秘められた土地利用・造成の歴史を少しずつ繙いていくと、その先に城郭史研究の新たな展望が開けてくるように思えるのですが・・・。

「城山の南西部を仕切る竪堀と土塁」
「北郊の寝釈迦の渡しから見た城山(鶏籠山)」

 ところで、龍野の北郊の揖保川に「寝釈迦(ねしゃか)の渡し」と名付けられた場所が在ります。そこから眺めた西岸の山並みの景色を、釈迦涅槃の姿に見立てたもので、東岸の岩場には石仏が掘り込まれており、城山(鶏籠山)から北に続く山並みが信仰の対象であったことがわかります。当時の人々が目前の山並みを「城」と見たのか、はたまた「仏」の存在を感じていたのか、確かなことは断定できませんが、山並みの凸凹の形が心象風景に映し出すその場・その時のメッセージが、地域の生活環境に大きな影響を及ぼしていたのではないでしょうか。人々の平時の暮らしを温かく見守りつつ、有事には身を守るための避難所を提供してくれる「山」。そんな心の拠り所となる頼もしい「山」への人文景観として、狭義の軍事施設以上の「城」の存在感もまた視野に入れておきたいところです。