トップ > 学芸員コラム れきはく講座

学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第47回:但馬国府・国分寺館保管「大般若経」 2014年2月15日

学芸員 相田 愛子

 

 

はじめに

 800年以上も昔の僧侶がたった一人で書写した「大般若経(だいはんにゃきょう)」が、豊岡市日高町の但馬国府・国分寺館に保管されています。大般若経は、正式には大般若波羅蜜多経という600巻もあるお経で、あの三蔵法師玄奘がインドから持ち帰った有難いお経を中国語に翻訳したものです。この但馬国府・国分寺館保管の「大般若経」(以下では、国分寺館本と略称します)も当初は600巻が揃っていたはずなのですが、縷々転々として現在では49巻が同館に所蔵されています。

 49巻全てを実見したところ、筆跡は乱れがちなものと整っているものとありますが、奥書の願文にあるように全巻一筆とみられます【図1】。料紙は素紙とは思われますが、全巻一様に黄味の強い色をしており、光にかざすと微細な雲母片のようなものがキラキラと輝き、透過光ではかなり繊維のムラが生じていることが確認されました。紙質は薄手で軽いもので、簀目は比較的粗めで2pに8〜10本ほどです。軸木は細めの木製で、軸首には黒漆を塗った簡素なものです。経文はすべて墨書され、界線は淡墨で引かれています。残念ながら表紙・見返しを残すものはありませんでした。

 

図1 「大般若経巻第154」 但馬国府・国分寺館保管

 

 今回の学芸コラムではこの国分寺館本について、但馬国府・国分寺館と豊岡市教育委員会のご協力を得ておこなった実地調査をもとにご紹介いたします。

 

研究の歩み

 さて、国分寺館本49巻のうちの2巻は、豊岡市指定文化財となった「大石家文書」(豊岡市所蔵)の一部で、巻頭から巻尾までを完存しています【図2・3 豊岡市教育委員会提供】。残りの47巻は野々庄区所蔵のもので、昭和62年(1987)11月に太田順三氏によって発見されました。この発見当時の様子は新聞記事に詳しく(1987年11月12日付読売新聞但丹版)、経巻の最後に記されている奥書がクローズアップされました。奥書の一つに、建久7年(1196)3月、立永という僧が法勝寺から経典を借り受け書写したことが記されていたからです。この新聞記事には、「写経された経文などは従来、歴史学の研究対象とされていなかったが、数年前から金石文などとともに〈生きた資料〉として注目を集めて」と述べられています。まさにその通りで、それから30年余を経た今日では、歴史の断面を示す史料として経典や絵画の銘文にもしだいに関心が払われるようになっています。

 

図2 豊岡市指定文化財「大般若経巻第299(大石家文書)」
豊岡市所蔵(※豊岡市教育委員会提供)

 

図3 豊岡市指定文化財「大般若経巻第354(大石家文書)」
豊岡市所蔵(※豊岡市教育委員会提供)

 

 平成6年に刊行された『鎌倉遺文 古文書編補遺第1巻』(東京堂出版)には、「大般若経書写願文」(但馬日高郷三野神社蔵)として「大般若経」巻第514の奥書が翻刻されました。この『鎌倉遺文』に掲げられた国分寺本巻第514の奥書を引用しておきます。

    「建久四年六月十七日

   於粟田御房書寫了、但雖[非]指證本、以法勝寺常行堂御経〈花軸〉所奉書寫也、

  偏為餝両三聖王子眷属願主當寺権都維那大法師立永〈六十二〉一部六百巻手自所奉書寫也、

               「(花押)」

  建久四年七月廿五日、以法勝寺書本御経一交了、

               僧長信

  嘉禎二年四月廿五日奉信読添削了、教賢

  為臨終正念往生極楽也、」(『鎌倉遺文 古文書編補遺第1巻』補142)

 平成21年には、但馬国府・国分寺館において、第12回ミニ企画展「『大般若経』の世界」(2009年10月15日〜2009年11月24日)も開催され、広く紹介されました。

 では、この但馬国府・国分寺館保管「大般若経」、どのような歴史的価値を有するお経なのでしょうか?

 

国分寺館本の奥書1―法勝寺僧立永―

 まず、この国分寺館本がわたしたちをうならせるのは、たった一人で写経された「大般若経」だということ。なにせ600巻もあるのですから! しかもお手本とされたのは、白河天皇が建立した法勝寺(ほうしょうじ)常行堂(京都市左京区岡崎法勝寺町)に所蔵の「大般若経」(法勝寺本)で、こちらをもとに青蓮院(京都市東山区粟田口三条坊町)の粟田御房で国分寺館本が書写されました。

 それも長寛元年(1163)から建久8年(1197)までと足かけ35年もの年月をかけて(!)。 なんという忍耐力でしょう。

 この僧侶の名前は立永(1131〜?)といい、法勝寺の権(ごん)都維那(ついな)大法師を務めました。立永の願いは「両所三聖王子眷属」の奉餝のためであったと記され、天台宗ゆかりの山王守七社のうちの大宮と二宮、聖真子、王子社の四社へ捧げられたものであることが分かります。立永は、建久3年から建久6年にかけて花押を記しています。当時、花押を用いる僧侶は身分の高い僧でしたので、立永もまた出自がある程度高かったものと推測されます。

 そして建久3年以降は、立永が写経した巻を追いかけるようにして、長信という僧侶が同じく粟田御房で校正しています。ただし長寛年間にすでに写経された巻は、写経がすべておわったあとで建久7年から8年に校正されました。

 このように各巻の奥書には、立永が写経をした日付と、長信が校正をした日付が入っており、巻次の早いものから順に写経・校正されたことがわかります。1163年から1197年という長期にわたって、立永と長信という二人の天台僧がタッグをくんで完成された国分寺本。相当の努力なくしてはなしえない仏行です。

 国分寺本は巻末の奥書により、写経された背景がつぶさにわかる点で歴史を示し、貴重であるといえましょう。

 

国分寺館本の奥書2―来歴:三野神社への移動―

 奥書には、書写された後の時代の紀年銘も記されています。

 嘉禎年間(1235〜1238)には教賢という天台僧が、また元応2年(1320)と同3年には良寛という僧侶が、それぞれ国分寺本の「信読」を行いました。このほか、経中に「但馬国大将野庄上村若王子ノ宮施入御経也」と書込まれた経巻が、3巻に認められました。大将野庄とは今の豊岡市日高町野々庄あたりをさす荘園の名前で、若王子ノ宮とは現在の三野神社と推定されます。したがってこの国分寺館本は中世のある時期には、まとまって三野神社に伝来したことが確認され、後代には神社の所在する地域(野々庄区)や個人によって保存されてきたものと考えられます。

 ただ、法勝寺から三野神社へと国分寺館本が移動する間には、数百年の時間が横たわっています。三野神社は熊野系の神社であり真言宗とゆかりが深く、天台寺院である法勝寺からどのように持ちこまれたかは、推測が困難です。そこで着目してみたいのが、今のところまったく想像の域をでていないのですが・・・、鎌倉時代には法勝寺の末寺となっていた但馬国分寺の存在です。国分寺跡と三野神社との距離は3キロ程度。いかが思われますか?

 

料紙と木製墨印(スタンプ)

 さらに執筆者の関心を引きつけたのは、料紙紙背に木製の墨印(スタンプ)が押されていることでした。しかも二種類も! これらは一見、墨で描かれたもののようですが、よく観察しますと、スタンプを押した時のズレやカスレ、版木が鋭角になったところに墨がたまっているのが確認され、木版であると判断されます。

 比較的あちらこちらに押してあるのは蓮弁のかたちです【図4】。12世紀後半から主流となるリアルな形の大ぶりなもので、それ以前の小ぶりなアーモンド型とは異なります。幾つかの巻では1紙ごとに蓮弁の印が押されているものもあります。

 

図4 「大般若経(巻次不明 建久6年3月10日筆写)」但馬国府・国分寺館保管

 

 もう一つは五輪塔の形をしています【図5】。一番下のパーツ地輪が平べったい長方形をしていて、古様な姿をとどめています。たとえば長寛2年(1164)頃に制作された「平家納経 宝塔品」本紙(厳島神社所蔵)と比較すると、よく類似することがわかります。国分寺館本では、五輪塔のまるい水輪のなかには梵字のバンも刻まれており、当時の密教との関連が示唆されます。

 

図5 「大般若経巻第35」但馬国府・国分寺館保管

 

 なぜこのような墨印が、料紙の裏に押されているのでしょう?

 前年度の学芸員コラムで、鶴林寺所蔵「紺紙金字法華経」をご紹介いたしましたように、平安時代から鎌倉時代の写経のなかには、料紙を調進する際の印が墨書されたり墨印で押されたりするものがあるのです(第28回:鶴林寺所蔵「紺紙金字法華経」について)

 なぜなら現代と違い、写経する紙ははじめから巻物のかたちになって売られている訳ではありません。写経をする前には、料紙となる紙を産地から運び、枚数を揃え、大きさを揃えるために裁断し、横に継ぎあわせ、軸や表紙などもそなえた巻物のかたちに整えなければなりません。文字を書きやすく、美しく見せるための加工も必要な場合があります。スタンプのシルシが押されたのは、こうした準備段階で行われたことでしょう。蓮弁は巻次のわかるもので巻第122と巻第432にあり、五輪塔の墨印は、巻第20【図6】と巻第35の2巻のみに押されています。このことから、年代の早い料紙には五輪塔、遅いものが蓮弁となっていることがわかり、料紙を調進した時代や経路ともかかわりがあるのではないか、と推測されます。

 

図6 「大般若経巻第20」但馬国府・国分寺館保管

 

 鶴林寺所蔵「紺紙金字法華経」には紙の裏に漢数字が墨書されていました。また「紺紙金字長寿王経(神護寺経)」(西尾市岩瀬文庫所蔵)には、○に上の字を刻んだ墨印が押されていました。こうした作例からこれまで筆者は、スタンプを押した経巻は12世紀前半に多くみられ、12世紀後半から13世紀ではあまりみられない、と考えていました。ですがこの国分寺館本のスタンプによって見解を改めなければならないようです。それとも紙の調達だけは長寛元年頃にストックして、時間があるときに写経していったのでしょうか。判断は容易にはくだせません。

 一方では、こうした墨書・墨印は天台系に多いという推測をもっていましたが、こちらは外れてはいないようでほっとしました。

 それにしてもスタンプが何を表しているのか・・・。

 何年も経典の調査研究にたずさわっているのですが、まだまだわかっていません。

 

おわりに

 さて、国分寺館本49巻は基本的に同一筆者によるものと述べました。しかしながら若干、後代に取りあわされた「大般若経」も混じっているのです。それは2巻ずつ2種類あって、一つは応永10年(1403)以前の木版印刷になるものです。もう一つは暦応6年(1343、正しくは康永2年)「安積保八幡宮」に施入された「大般若経」です【図7・8】。この「安積保八幡宮」は、現在の八幡神社(宍粟市一宮町西安積)ではないか、と考えられます。南北朝の動乱期にだれが「大般若経」を八幡宮に寄進したのでしょうか、気になります。

 

図7 「大般若経巻第208」但馬国府・国分寺館保管

 

図8 「大般若経巻第289」但馬国府・国分寺館保管

 

 装飾経の研究はわからないことばかりですが、その分、研究の余地が残されているのだと筆者は前向きにとらえています。日本の写経ではありませんが、西夏という国でつくられた木版印刷のお経について考察した論文が、『仏教美術論集 機能論−つくる・つかう・つたえる−』(長岡龍作編、竹林舎、2014年4月刊行予定)に掲載される予定です。もしもお経にご興味を抱かれた方がいらっしゃいましたら、書店でお手にとって頂ければ幸いです。

 最後までお読みいただきありがとうございます。(了)