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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第43回:美術逍遙 番外編22013年10月15日

学芸員 五十嵐 公一

 

 絵師の年齢についての話を1つ。

 

鶴澤探山 鶴図 享保九年(1724) 七宝庵コレクション

 

 これは1羽の鶴をサラッと描いただけの絵だ。画面左には「八十八、幾代重ねん、としのはる」の自賛があり、画面右には「享保九年辰年正月二日 探山行年七十歳筆」の落款がある。つまり、享保九年(1924)正月二日、数えで七十歳となった鶴澤探山が新年を祝って描いた鶴図という訳だ。

 

 この鶴澤探山というのは、江戸幕府に仕えた狩野家総帥・狩野探幽の弟子。元禄年間、狩野派の京都支店長のような役割を期待され、江戸から派遣された絵師である。探山はその京都を拠点として活躍し、多くの弟子を育てた。この探山から始まる絵師集団を鶴澤派とよんでいる。あの円山応挙は鶴澤派の絵師・石田幽汀の弟子。従って、鶴澤派に連なる絵師ということになる。

 その探山だが、この鶴図に従うなら享保九年に七十歳だから明暦元年(1655)生まれということになる。ところが、元禄十三年(1700)に法橋となった時、探山は四十三歳だと自己申告している。これによるなら、探山は万治元年(1658)生まれだ。つまり、三歳若く自己申告して法橋になったという訳。

 では、なぜこんなことをしたのか?これには理由がある。探山が四十三歳で法橋となったという家例、つまり前例を作ってしまったら、原則としてその子供も四十三歳にならないと法橋にはなれない。鶴澤家の家例作りのためには、探山が法橋となった年齢が若ければ若いほど有利なのである。そのため探山は三歳若く自己申告した。

 この鶴図は新年に描かれた作品だ。新年くらい本当に年齢を画面に記したい。この鶴図には探山のそんな思いが出てしまったのである。