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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第26回:城郭談義(その6)「お城らしさの秘密―手拭い画の構図―」 2012年5月15日

学芸員 堀田 浩之

 

 城郭とそうでないものとの判別。いわば“お城らしさ”を演出する構図の秘密がそこにあるとすれば、具体的にはどのような表現がなされるのでしょうか。かつて、館蔵の鳥羽正雄コレクションに収められた城郭の手拭(てぬぐ)い画を目にした時、「ああ、これだ!」と妙に納得させる回答事案に出会った気がしました。この資料は、画期的な城郭鳥瞰図の作品を残したことで有名な、尼崎市出身の荻原一青(おぎわら いっせい)が1960年代に制作したもので、全国70余りの近世城郭の各々のイメージを、横に細長い手拭いサイズに巧く描き込んでいます。一目で城郭と認識させる一青の明快な作画センスには舌を巻きますが、ここでは、各城の個性の見事な図案化に成功した無類のお城好きの感性を介して、 お城を連想させる“らしさ”の構図について、謎解きをしてまいりましょう。

 まず、私の目にとまったのは、信州の海津(松代)城です。画面右側から鑓を手にした騎馬武者が勢いよく駆けていく場面。真田家紋の6文銭の旗を背負い、進行方向の左上には城郭のシルエットが白く浮かび上がっています。地上に現存する遺構として周知の城郭建造物のなかった海津城にあっては、真田家ゆかりの城郭であることを騎馬武者の旗印で示す以上の図像化は難しいのでしょう。そこで、遠くに城郭のイメージの形をぼんやりと描くことで連想のコードとしたのですが、むしろ意外なことに、付加的な点景の中にこそ城郭と認識するための基本アイテムが勢揃いしていると、私には興味深く思われたのでした。例えば十文字鑓の穂先の上、水平に棚引く霞の中から “城郭っぽい”白い固まりが立ち上がる。そこには、なぜか松の木とシャープな勾配の石垣の表現。傍らには二重屋根の特異な城郭建築がひかえ、その上層部分には、千鳥破風の三角形が印象的なアクセントを刻み、鯱が大棟の両端に反りかえる・・・。どうです、シンプルな構図だけど、“らしさ”を感じませんか? 実のところ、(1)重層の建築、(2)三角形の破風屋根、(3)鯱の3要素が、城郭建築の“らしさ”を演出する構成要素なのだと、私はこの画から悟ったのでした。

手拭い画/海津城(当館蔵:鳥羽コレクション)
手拭い画/岐阜城(当館蔵:鳥羽コレクション)

 どうやら、城郭となるべき対象の図像表現としては、[A]の立地環境と[B]の建造物という、二つの構成要素に分類できそうです。そもそも城郭の定義とは“防御施設の空間化の表現”と認識することが可能であり、内と外を隔てる高さと険しさのポテンシャルの形が、「山」という立地条件を求める必然の作用をもたらします。そこには、タテの切岸とヨコの削平による人工的な壇状のシルエットが造成されるのですが、因みに、地図記号の「城跡」に象徴されるイメージ表現の形は、明らかにこの視点からのものでした。つまり、周囲から際立つ位相空間を確保することが城郭の原理に他なりませんから、場合によっては岐阜城の手拭い画に見られるように、まさしく「山」自体が「城」の存在感を表象することもあったのです。ただし、中世から近世へと移るにつれ、城郭の認識のあり方に一定の変化が出てきます。視線を集める装置としての建造物の登場です。岐阜城の図像では、暈しのかかった峨々とした金華山頂に、三角形の屋根を重ねた天守が、殊更色濃く描き添えられ、人々の関心をピンポイントで引き寄せる効果を出しています。既に、城郭の主体は「山」から取って代わられ、建造物があってこその「城山」の認識となるのです。

 

 ところで丸亀城の手拭い画では、そんな人目を惹く建造物が「群」として林立している光景が、立面上に表現されました。城郭プランの研究では、所謂「縄張」をモチーフとした平面での検証がなされる傾向が多いのですが、城郭の形の評価は決してそれのみではないことを、一青の絵筆はあらためて気付かせてくれます。面白いことに今日の丸亀城跡の山上には、現存天守のほか櫓等の城郭建造物群はありません。現地に行っても手拭い画のような刺激的な図像は望めないのです。おそらく、監修にあたった鳥羽正雄の指導考証により再現された立面構図なのでしょうが、やはり、この場面を選択させたことは見事の一言に尽きます。また、ここにも一二三(ひふみ)段の石垣と松のシルエットがありますが、注目したいのは天守・櫓群の屋根の向きです。海港と対面する北側の大手方向では、天守の左下の櫓(ここだけ向きが違うというのもハイセンスなところ!)を除いた全てが三角形の妻側を見せています。天守では方形平面の長辺側に態々破風屋根を設けており、建築のセオリーに叛いてまでの効果的な景観演出を企図していました。そういえば初期の天守形式では、上層の望楼部分が建物全体の正面に対して妻側の三角を向けるものでしたが、原形の継承に価値を置く建築意匠の伝統感覚が働いたものなのでしょうか? それにしても、ボーダー基調の一二三段の城塁との対照が、何とも目に鮮やかに映ります。

手拭い画/丸亀城(当館蔵:鳥羽コレクション)」
「手拭い画/姫路城(当館蔵:鳥羽コレクション)

 次に、色使いの工夫が楽しい姫路城の手拭い画を見ておきましょう。白鷺に例えられる白さの美観が自慢の姫路城は、下地の青色を活かした白抜きの連立式天守が画面の中央に立ち上がり、“らしさ”に向けてのバックアップを試みています。そして、足元の松の木で城地のベースを表現することで、城郭建造物にそれとなく現実味を添える一方、各重に亘り屋根の両端を飾る鯱の存在感には小さいながらも驚きました。子供のスケッチ画では、鯱が実際に見える以上に大きく描かれる傾向が認められるのも納得です。仮に、この手拭い画の姫路城天守から鯱を消去するとしたら、屋根の立姿に威勢と上昇感のインパクトを欠いた収まりの悪さが出てしまうので、鯱の形には実に不思議な効用があると言えます。さらによく見ると、大天守初重の石落としの肩に当る所から斜めに「方杖」の表現があり、この手拭い画が昭和の大修理以前の図像であることが判りました。そういえば画中の大天守は右下がりに傾いているように見えますが(この後の解体修理によって大天守の傾きが修正されます)、荻原一青の表現力が実際の天守の傾きまでを作画していたとするならば、その構図に秘められた神業にも似た“らしさ”の追求に酔いしれてしまうのです。

 

 最後に、一青の手拭い画を二つばかり紹介します。岩国城の図像では、手前に主役である「錦帯橋」が置かれ、アーチを描く橋の下から天守(近年のもの)が遠望できる情景を、そして豊後の岡城では、当地出身の滝廉太郎が作曲した有名な「荒城の月」の歌詞を、月影ともども余白に記しています。とくに、この二つの作品を採り上げたのは、“お城らしさ”の認識対象に絡む問題について触れてみたかったからです。

 江戸時代に天守の構築を否定された岩国藩では、川で仕切られた町屋地区と侍屋敷地を結ぶシンボルロードとしての「錦帯橋」の創作表現に、天守を諦めざるを得なかった時の複雑な経緯が込められていたように感じられます。橋の土台は城郭の石垣を髣髴とさせ、木造の橋桁が織りなす技巧的で優美な造形は、姿のない幻の天守との対比の下で、それに匹敵するモニュメント作成への情熱をもって、いつも天守への潜在意識を秘め続ける対象物でもありました。そういう意味では、城郭建築に限りなく近い威厳と品格を極めたこの橋を介して、見えない天守の面影を心象風景の中に想い描いていたのでしょう。

 一方、大規模な山城遺構で知られる岡城では、名曲「荒城の月」の登場とともに、現実の姿とは違う城郭のイメージを以後の人々の脳裏に刻んでいきました。 “お城らしさ”を演出する認識対象は、決して“有形”のものに限られるわけではありません。岡城は広くポピュラーな存在であり続けるために「荒城の月」の似合う城郭を装い、その印象が強烈であるがゆえに、現実とは懸け離れた“らしさ”の根拠を“無形”の連想コードのうちに求めたのでした。眼前の“有形”の建造物が歴史物語を体現する認識対象として、その城の由緒を語り始めるには、馴染みやすい“無形”の言説を帯びる必要があったのです。

手拭い画/岩国城(当館蔵:鳥羽コレクション)
手拭い画/岡城(当館蔵:鳥羽コレクション)