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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第20回:地獄絵に描かれた平清盛   2011年11月15日

館長補佐 小栗栖 健治

 

 2012年のNHKの大河ドラマでは平清盛が物語化される。大河ドラマで清盛が主人公になるのは2回目で、1回目は40年前の1972年のことであった。私にとって清盛は極悪非道という印象が強かったが、仲代達矢さん演じる清盛は人間味が溢れていた。

 平清盛が地獄の絵に登場する。これは定説ではなく、「熊野観心十界曼荼羅」に描かれているのではないかという、私の仮説である。ここで取りあげる「熊野観心十界曼荼羅」と称される地獄絵は17世紀頃に登場してくるもので、平清盛が感得したという伝承が残されている。

 「熊野観心十界曼荼羅」は、人生を山坂にたとえた「老いの坂」、「心」字から展開する十界(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)、施餓鬼供養、そして、さまざまな地獄の責め苦を描いている。また、熊野比丘尼という女性宗教者が地獄極楽の説教に用いた宗教絵画であったこともよく知られている。

熊野観心十界曼荼羅
(兵庫県立歴史博物館蔵、以下同)
熊野比丘尼(『我衣』)

 画面の上段に半円形の山坂が描かれ、坂の入口と出口に鳥居が立っている。入口の鳥居の右側に館があり、そこで赤子が誕生する。山坂を上りはじめた赤子は成長し、元服、結婚、山頂で人生の頂点を極める。その後は年齢とともに下り坂となり、官を辞す、孫に手を引かれる、杖をつく、そして、最後には合掌し、鳥居を出たところが墓地になっている。人生の苦難を山坂の上り下りにたとえて描いたこの山坂を「老いの坂」と呼んでいる。山の周囲には、梅、柳、松、杉、紅葉、楓、冬枯れが描かれ、人の一生を四季で捉えていることも分かってくる。

 では、この地獄絵のどこに、清盛は描かれているのだろうか。実は、この「老いの坂」に描かれる人物に平清盛がいるのではないか、そのように思っているのである。私が推測しているのは、「老いの坂」の頂上に描かれた束帯姿の人物である。

老いの坂
金扇を持つ束帯姿の男性

 「熊野観心十界曼荼羅」は60例ほどが確認されているが、頂上に立つ人物の多くが金扇を右手に持って上方に掲げ、何かを仰いでいるように描かれている。「朝日長者」・「湖山長者」などの長者伝説を御存知だろうか。沈む太陽を金扇で仰ぎ戻すが、その奢りにより最後には没落するという「日招き」の伝説である。

 この「日招き」の伝説と結びついたわが国の歴史上の人物としてひろく知られているのが平清盛なのである。『理斎随筆』(文政6年序 1823)は、平清盛が扇で太陽を招きあげようとしたところ3尺上がったと俗に伝えられていることを記し、清盛の日招きの図を添えている。

日招きの図(『理斎随筆』)

 清盛と日招きは、経の島の築造、あるいは厳島神社の造営と結びついて語られる。ここでは厳島神社の造営と日招きについて、その要点を記しておくと次のとおり。

   清盛が厳島神社の造営を行い、航行の安全のため音戸の半島を一日で掘り抜く大工事に着手する。しかし、
   工程の半分ほどのところで太陽が西に沈みかけたため、清盛は近くの山に登り太陽を睨み金扇を開いて麾い
   た。いったん沈みかけた太陽は清盛の威勢を恐れて徐々に東の空へ戻り、再び沈む頃に工事は完成した。

 清盛が夕日を招く伝説は江戸時代中後期には広く知られており、『俳風柳多留』にも、

   一日に弐度日の暮れる平家の世
   清盛の扇のほしき花の山

などの句が詠まれている。

 ところで、熊野比丘尼はこの「熊野観心十界曼荼羅」を用いて地獄極楽の説教を行っていたが、『好色訓蒙図彙』(貞享3年 1686)は、その絵解きについて、

   老の坂のぼ(上)ればくだ(下)る、つね(常)ならぬ世の無常をしめ(示)して、心なきになミだ(涙)をこぼさせて

と記している。この語りは、熊野比丘尼が「老いの坂」の場面を絵解きしているところであるが、ここでは人生の「無常」を説いている。

 私は、熊野比丘尼の説く「無常」の拠りどころが『平家物語』にあるのではないかと推測している。「盛者必衰の理」、「おごれる人も久しからず」の象徴として「老いの坂」に清盛を描いていた、そのように考えることはできないかと思っているのである。