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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第19回:近代演劇に見る女性の美しさ   2011年10月15日

学芸員 今野 加奈子

 

 1897年(明治30年)から連載が始まった「金色夜叉」において、ヒロインのお宮は、次のように描かれています。

 「粧飾(つくり)より相貌(かおだち)まで水際立ちて、凡(ただ)ならず媚(こび)を含めるは、色を売るものの假(かり)の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。」  本田和子氏がこのことについて、「作品に登場させられた素人娘は、未だその堅気の美しさで人々を魅了するに至らず、花柳界のそれを借りねばならなかったというのだろうか。」と指摘しているように、明治の世になって30年経っても、典型的な女性の美しさは花柳界に求められ、その美しさ以外には言い表す言葉がなかったこと驚かされます。

 明治30年代といえば、演劇においては新派が完成された頃でした。新派は、明治20年代の川上音二郎などによる壮士・書生芝居から発展して、「瀧の白糸」といった明治期の現代劇を演じるようになったものです。このころ、女優は一般的ではなく、新派では女性の役は女形が担っており、彼らの演じる役柄としては芸者が代表的なものでした。

 つまり、芸者に象徴されるような明治の女性の美しさを、舞台上で演技の型として洗練させていったは男性だったのでした。

 明治30年代後半になると、歌舞伎や新派の商業主義を批判して、芸術としての演劇を目指した、知識人による新劇がはじめられ、その活動を通じて、明治40年代に女優が本格的に受け入れられるようになります。しかし、新劇の女優である松井須磨子の晩年の演技が新派のようだと評されるなど、新派の女形が完成させた女性の美しさの型の影響はなかなか消えなかったようです。

 こういったことを見ていくと、1914年(大正3年)に初舞台を踏んだ宝塚少女歌劇の10代の少女たちの演技が、当時の人々の目にいかに新鮮にうつったかが想像できます。創設者である小林一三は、素人の少女たちを採用し、舞台から芸者を連想させるような要素をはぶいたのでした。その試みは、やがて大正から昭和にかけて発展した「少女文化」と交差して、西洋のエッセンスをちりばめ少女の魅力を生かした華やかなレビューに結実し、昭和初期に一世を風靡しました。宝塚少女歌劇は、明治の頃とは異なる女性の美しさを提示し、男性ではなく女性を魅了したのです。

   参考文献:本田和子『女学生の系譜 彩色される明治』1990年、青土社。

宝塚少女歌劇スターのグラビア
『少女の友』第31巻5号、1940年
兵庫県立歴史博物館蔵(入江コレクション)
宝塚少女歌劇双六 大正末
兵庫県立歴史博物館蔵(入江コレクション)