道成寺縁起
 あたし、清姫には、結ばれるならこの人、と、心にきめた男のひとがいたの。その人、安珍(あんちん)といって、あちこちの聖地を巡礼する旅の僧侶だった。あの年も熊野(くまの)詣(もうで)のため、紀伊国(今の和歌山県)のあたしの家で一泊したわ。その夜、あたしは思いきって自分からプロポーズをした。すると彼は、
「熊野をお参りしたあとで、絶対に戻ってくるから」と約束してくれた。
 ところが熊野詣を果たした彼は、あたしの家を迂回(うかい)して、あたしのもとに戻ることなくまた旅立ってしまった。それで、矢も盾もたまらず、追いかけたの。
 橋のない切目川を、流れに足をとられながら渡った。
 切目神社をすぎるころ、あたしは彼の姿を見つけた。あたしに気づいた彼は、持ち物を全部捨てて、走り去っていった。
 土野のあたりで、あたしは岩に腰をおろして息をついた。ただの息だと思ったあたしの吐息は、透明ではなく、真っ赤な火炎だった!
 道の先では安珍が逃げている。
 あたしは追いかけつづけた。けれど行く手を、たっぷりとした水をたたえた日高川にはばまれた。船頭はあらかじめ安珍から頼まれており、あたしのために舟を出してはくれなかった。それであたしは着物をぬいだ。
 ざぶん。
 川へ飛び込むために。
 日高川に飛び込んだあたしの体は、大蛇になっていた……。
 安珍はその先の道成寺に逃げこんだ。釣鐘をおろしてその中に隠れていた。
 あたしが道成寺にたどり着くと、境内には僧侶のほかはだれもいなかった。あたしは堂社を四、五遍ほどまわると、安珍の足跡を嗅ぎとめた。(あたしは、やはり蛇になっていたのだわ。)
 安珍が釣鐘のなかにいるのは明らかだった。
 あたしは蛇になった体を釣鐘に巻きつけ、尾で鐘を叩き、火炎を吐いた。半日ほどそうしていただろうか。あたしはその場を去った。
 僧侶たちが釣鐘をどかすと、安珍はすでに息絶えていた。真っ黒に焼けた、ちいさな骸骨となって。
 その後のある日、道成寺の老僧の夢のなかに二匹の蛇が出てきて、こう告げた。
「わたくしたちは安珍と清姫です。蛇の身で夫婦となりましたが、蛇道の苦しみを受けています」
 そこで道成寺の僧侶たちは、協力して一乗妙法の『法華経』を写経して、法会を営むこととした。
 その夜、老僧の夢にふたたび安珍と清姫が、美しい天人の姿となって現れた。『法華経』の功徳によって、安珍は都率天(とそつてん)に、清姫は忉利天(とうりてん)に転生したのだった。
 それより道成寺には、『法華経』を読誦する声がいまなお響いているということである。
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