
兵庫県埋蔵文化財情報 20号![]() | 平成8年1月17日 発行 |
| 小像で飾った須恵器が出土 小野市勝手野(かっての)古墳群 |
| 平成7年5月から、小野市の山陽自動車道建設地内で発掘調査をしていた勝手野古墳群の6号墳から、小さな人物像や動物像を飾った大型の須恵器(装飾付須恵器(そうしょくつきすえき))と呼びます)が2個出土しました。本号ではこの装飾付き須恵器を中心として、今年度の発掘調査の一部をご紹介します。 勝手野6号墳の石室入口の両側から、出土した2個の装飾付須恵器は、ほぼ同じ形をし、長い脚台の上に壺を乗せた形態のもので、壺の中ほどに幅4pくらいのツバを巡らせ、その上に人物や動物などの小像を飾っています。その内、石室に向かって左側に置かれていた状態の良い方には、本体11体(あるいは12体?)の小像が付けられていたようですが、残っているものは、そのうちの10体で、人物7体、動物2体、人物+動物1体からなっています。石室に向かって右側に置かれていた、もう1個は状態が悪く、4体(人物2体・動物2体)が残っていただけです。 これらの小像群をどう解釈するかは、今後、検討を重ねていく必要がありますが、狩猟・男女・相撲など、4つの場面から構成されているとみられます。これらは、『日本書紀』・『古事記』・『風土記』などに書かれた神話や伝承をかいま見ることのできる資料であるとともに、古代人の造形美の豊かさや、表現力の確かさをうかがわせる第一級の資料といえます。 |
![]() 装飾付須恵器 |
![]() ![]() ![]() ↓相撲をとる男性と行司 ![]() |
| 勝手野古墳群(小野市黍田(きびた)町字勝手野) |
| 加古川に面した丘陵裾部の標高33〜40mに立地する古墳群です。全部で11基の存在が確認されていますが、今回は、高速道路建設工事にかかる8基の発掘調査を行いました。 調査した古墳はすべて円墳で、古墳時代後期に特徴的な横穴式石室という埋葬施設に、石棺や木棺を納めていました。出土品や石室の構造からみて、古墳時代後期でも比較的新しい、6世紀末から7世紀前半にかけて、次々に造られたものと考えられます。 勝手野古墳群では、6号墳出土の装飾付須恵器以外にもいくつかの重要な成果がありました。 その一つは、3号墳から出土した馬具のセットです。鉄に銅を巻き、その上に金箔を張って作られており、黄金色に輝く装飾性の強いものです。馬具の呼び方は、ちょっと難しいですが、「鏡板(かがみいた)」・「鞍金具(くらかなぐ)」・「杏葉(ぎょうよう)」・「雲珠(うず)」・「辻金具(つじかなぐ) 」・「飾金具(かざりかなぐ)」などが出土しています。 |
![]() 調査風景 ![]() 出土状態 |
| このような馬具のセットは、古墳を数多く調査しても、なかなか出土しないものです。 二つ目は、2・3・5号墳の3基に「家形石棺(いえがたせっかん)」とよぶ、石棺が埋葬されていたことです。今回出土したのは、加西市で産出する石を丁寧に加工して組み合わせたもので、特に、3号墳から出土した家形石棺は、底石だけでしたが、規模が大きく、埋葬された当時の位置を保っていることなど、石室内での埋葬儀礼の研究に重要な発見となりました。 |
装飾付須恵器 | ![]() |
| 装飾付須恵器は、全国では比較的多くの出土例が知られています。そのうち小像を飾った土器は120例ほどありますが、その大半は残片に過ぎません。 分布の中心は、兵庫県を始め、岡山県や大阪府、和歌山県などで、地域的には偏りがみられます。 |
![]() 古墳群全景 ![]() ![]() ↑鏡板 | 今回出土した装飾付須恵器は、ほぼ完全な形に復元できたことや、小像がリアルで、しかも動きがあるなどの特徴があり、装飾付須恵器の代表的な資料といえます。この特徴以外にも、従来の常識を打ち破るような、研究上重要な点が数多く分かりました。 土器の形態 口頸部に透かし穴をあけている点や壺の底がなく、筒抜けになっていることです。こうした形態の土器は、全国で初めての出土です。 土器の正面 脚と壺の間にあるタガに正面を示す印が付けられています。このような印は、これまでの土器では全くありませんでした。 置かれていた場所 横穴式石室入口の左右に立てられていました。このことは、石室で行われた葬儀の様子を知る、極めて重要な発見といえます。 作られた年代 7世紀前半と考えられ、これまで知られていたものより数十年新しいものです。 |
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| 貴船神社(きふねじんじゃ)遺跡(津名郡北淡町野島) |
| 『万葉集』に「名寸隅(なきずみ)の 船瀬(ふなせ)ゆ見ゆる 淡路島 松帆(まつほ)の浦に 朝凪(あさなぎに)に 玉藻(たまも)かりつつ 夕凪に 藻塩焼(もしおや)きつつ 海をとめ ありとは聞けど 見にいかむ」(巻第六 九三五)という長歌があります。この歌の塩づくりの情景を彷彿とさせる遺跡が、今回発掘された貴船神社遺跡です。 遺跡は、阪神・淡路大地震の爪痕が残る野島断層沿いの淡路島西浦海岸に位置し、播磨灘に面しています。背後には貴船神社のある丘陵があり、海と丘陵の間に南北に細長く広がった砂堆の上に立地しています。晴れた日には、播磨灘をはさんで明石市から姫路市の海岸線はもちろん、遠くは瀬戸内海に浮かぶ小豆島はもとより四国まで眺望できます。 |
| 発掘調査は、平成7年7月から12月まで行いました。その結果、古墳時代中期から奈良時代(5世紀から8世紀)にかけての製塩遺構がみつかり、県下では初めての、本格的な製塩遺跡となりました。 塩づくりは縄文時代から行われていますが、西日本では弥生時代になって、紀淡海峡に面した地方や備讃瀬戸などで、広く行われるようになります。当地淡路島でも、弥生時代から、塩づくりが行われたことが分かってい |
![]() 遺跡航空写真 |
| ます。貴船神社遺跡では、和歌山県や大阪府側での塩づくりが衰退する古墳時代後期に盛期をむかえています。 塩づくりには、濃縮した海水を作る工程と、さらにその濃い塩水を煮詰めて塩をとりだすという2つの工程が必要です。最初の工程については、文頭の歌にみられる、「藻塩焼き」をあてる考え方もありますが、実際、古代の方法はよく分かっていません。最近では、藻につく微小な貝の有無を確認することで、藻塩焼きを具体的に証明しようとする研究がおこなわれていることから、今回の調査でも、この方法を行いましたが、微少な貝は検出できず、明らかにできませんでした。 次の塩をとりだす工程は、濃縮した塩水を土器に入れ、炉の上に並べて煮詰め、水分を蒸発させて、残った塩だけをとりだします。この時にに使う土器を「製塩土器」と呼んでいます。今回の調査では、炉跡とたくさんの製塩土器が見つかりました。 炉は、確実なもので22基見つかっており、壊されたものや不定形なもの、小規 |
![]() 炉跡調査風景 |
模な集石も数えると当時使っていた炉の数はもっと多いと考えられます。炉跡は石敷炉と呼ばれるものが大半ですが、石囲炉や石を2列並べた炉もありました。 石敷炉(いしじきろ)の多くは径60pから120pの規模で、形は円形や楕円形、さらには隅丸長方形といろいろです。すべて石をぎっしり敷き並べていました。炉に使われている石材にはチャート、花崗岩,砂岩などがあります。花崗岩や砂岩は焼けると割れやすいので元の形を残していないものも多く見うけられます。 |
| 製塩土器は、塩水を煮詰め塩を取り出した後、廃棄されるため、炉の周辺では多量に出土します。今回見つかった製塩土器は、弥生時代の終わり頃から奈良時代までのものですが、特に古墳時代後期の製塩土器は、層になった状態で出土し、土器捨て場そのものでした。恐らく、この地で塩づくりは、この時期が最も盛んであったと思われます。 このほか、塩づくりに係わった人のものと考えられる竪穴住居跡2棟と墓が見つかりました。住居跡は、1辺4m前後の方形で、北側に竈(かまど)を設け、砂地のため床面には粘土を敷いていました。 墓は、石を組み合わせた箱式石棺です。かつて発生した地滑りの影響で壊れており、全体の規模は明らかではありませんが、幅40p・長さ170p以上です。 興味深いのは、箱式石棺の内側が焼けていることです。副葬品は未使用の製塩土器だけで、他のものよりは丁寧に作られていました。 | ![]() 製塩土器堆積状況 ![]() 竪穴住居跡 |
![]() | そのほか注目される遺物としては、朝鮮半島から運ばれた新羅陶器があります。両肩に把手が2個ずつ対につけられた樽形陶器の破片です。把手は3個出土し、サルのような顔がヘラ先で描かれており、この顔が大変ユーモラスです。 遺跡の周辺は野島と呼ばれ、その地名から『日本書紀』や『万葉集』にも記載がある「野嶋海人(のじまのあま)」と深くかかわりあった地域とされています。野嶋海人は天皇の食料の調達をつかさどった氏族といわれていますが、今回、製塩跡がみつかったことで、塩づくりにも関係したことが考えられます。 |
| 古代の淡路国は、『延喜式(えんぎしき)』や平城宮出土の木簡から、税として塩を納める国だったことが知られています。また、海岸部では、製塩土器を出土する遺跡が点々と見つかっていました。しかし、これまで炉跡を伴った製塩跡はなく、今回の調査によって、淡路での塩づくりの様子が、具体的に明らかになりました。 |
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| 三田(さんだ)城跡 (三田市(てんじん)) |
| 平成7年4月末から、県立有馬高等学校体育館が建築されるに伴って、体育館南側のテニスコ−ト跡約2,000uについて発掘調査を行いました。この場所は、標高160mの天神台地上に位置し、水軍で名をはせた九鬼(くき)氏が、江戸時代に陣屋を構えたことで知られています。 三田陣屋は、寛永10年(1633年)に九鬼氏が三万六千石で入封し、それまであった車瀬(くるませ)城の縄張りを改めて築き、幕末にいたります。江戸時代に描かれた絵図によると、調査位置には「カラ堀」と「武具蔵」の記載がみられます。調査でも絵図の中のカラ堀が見つかり、絵図が正確であることを証明しています。武具蔵については、後世に削平されたためか、検出できませんでした。 車瀬城は、一説には15世紀末に赤松(有馬)村秀が築城したといわれ、調査区のあたりに主郭があったと推定されていますが、はっきりしたことは分かっていませんでした。今回の調査で、車瀬城に関係すると思われる遺構が、初めて発見されましたので、紹介します。 |
![]() 調査区全景 ![]() 甕倉 |
| 15世紀末から16世紀中頃の遺構は、1棟の建物を中心に配置され、建物の東側には池が、南側には甕倉が、西側の少し離れたところには井戸が、建物の北東側には堀が設けられていました。これらの遺構は、赤松氏によって築城されたいわれる時期と一致し、築城当時の遺構なのかもしれません。 建物の周囲には,素堀の溝が方形に巡らされ、溝からは雨水を堀へ流すために、頸30pで長さ9mの丸太を半分に割ってくり抜いた木樋と呼ばれる配水管が設けられていました。 |
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![]() 三田古絵図(三田市教育委員会提供) (寛政五年の絵図を昭和21年に模写したもの。原図は行方不明。) |
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| 建物東側の池は、縁に河原石が敷かれていたことから、庭園の池と考えています。居住区内と隣接していることから、当時の人が庭園のある風景を楽しんでいたのではないでしょうか 建物の西側で見つかった井戸からは、漆で塗られた椀、箸などの生活用品が出土しています。 甕倉は、建物の南側、調査区の南端で見つかりました。穴を掘って22個の甕を並べていたものですが、残念ながら甕は残っていませんでした。調査地が車瀬城の推定地とということを考えると、甕倉は戦に備えて油を貯蔵していたのでしょう。 | ![]() 15世紀末から16世紀前半の堀跡 |
![]() 石組みの井戸 |
堀は、調査区の北東隅で、東西から南北方向に直角に曲がった状態で見つかり,角の部分には土橋が架けられていました。端が調査区の外側に続いていたので、地中レーダー探査を行いました。その結果、北に約30m延びた地点で、東へ折れ曲がっていることが分かりました。 16世紀の後半になると、織田信長の家臣、荒木村重の甥の荒木平太夫が城主になります。この頃の遺構についての検討は、十分では、ありませんが、調査区の中央で見つかった1棟の礎石建物を中心 |
| に、この建物の東に1棟、南に1棟が配置されていました。 中心の建物は、7×14mの規模で、当時の建物としては比較的大きなものだったようです。南側の建物は、建物の西側に甕と径約2mの石組みの井戸があることから、炊事場に類する建物だろうと考えています。 井戸からは山崎家の家紋の入った瓦、鬼瓦、鯱(しゃち)などが見つかっています。 この車瀬城は、築城から九鬼氏が陣屋を構えるまでの間に20〜30年ぐらいで城主が替わっています。新しい城主は、前の時期の溝などを使って築地を築いたり、何度も整地をして、縄張りを改めていたようです。城跡からは、現在でも三田市街や武庫川を一望でき、当時の城主たちも、この場所が城の立地に最適だと考えて、同じ場所に城を置いたのかも知れません。 今回は、伝承でしかなかった車瀬城を中心に紹介しました。三田の歴史の一部を、かいま見ていただけたのではないでしょうか。 |
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| 復興調査の現場から |
| 復興事業関連の調査が始まって7カ月が過ぎました。一口に復興調査といっても様々で、数haもある現場から、100uに満たない現場まであります。しかし、規模の違いはあっても、発掘調査が急がれるのは皆同じです。そこで、県教育委員会では、市町教育委員会が対応できない調査にも、応援の手を差し伸べています。支援している数多くの現場の中から、今回は芦屋市と川西市の遺跡をご紹介します。 | ![]() |
| 打出岸造(うちできしづく)り遺跡 (芦屋市大原町) |
| 共同住宅建設に先立って行った調査で、弥生時代末頃の水路と中世の水田跡が見つかり、特に、弥生時代の水路からは、多くの木製品が出土しました。 水路は、調査地を東から西に横断するように確認されました。幅8m・深さ2mの大規模なもので、水路の中には流れに直交するように、井堰(いぜき)遺構が造られていました。調査地より150mほど東の宮川より水を引いた用水路とみられ、弥生時代末に設けられたものですが、古墳時代初めに、埋没したようです。 水路跡からは、当時の遺物が数多く出土しました。中でも、木で作られた道具は地下水位が高かったこともあり、良好な状態で残っていました。皿や矛などの日用品や鍬のほか、「もじり編」に使う道具などが見つかっています。もじり編みとは、刻みを入れた目盛り板の上にヨコ糸(ワラなど)をのせ、両端に錘(おもり)をつけたタテ糸で交互に織り込んでいく編み方で、その製品にはスダレや俵などがあります。今回の調査では、ワラをたたいて柔らかくする横槌(よこづち)や編み台の目盛板、タテ糸の錘が出土しました。今回出土したもじり編みの道具は、現在に伝わっている江戸時代の編み台の目盛りの幅からみて、腰カゴやスノコなどを作るのに使われたものでしょう。 芦屋市で、このように貴重な木製品が多量に見つかったのは、初めてのことです。 |
| 加茂(かも)遺跡 (川西市南花屋敷) |
| 遺跡は、川西市南部の洪積台地上に位置する旧石器時代から平安時代にかけてのもので、学史的にも非常に著名な遺跡です。 特に、今からちょうど2000年前頃の弥生時代中期後半(畿内第W様式)の時期の集落は基礎も大きく、東西800m、南北400mにわたって遺跡が広がっていることが確認されています。 この遺跡で住宅が建設されることになり、都合2回の調査を行ないました。1952年に最初の調査が行なわれてから、通算150、151回目ということになります。今回の調査地は、これまでの調査の結果から、遺跡の中心からは少し離れ、弥生時代に墓地が造られていたことが分かっている地域に当たります。今回の2回の調査で、弥生時代の方形周溝墓と縄文時代の土器棺墓(どきかんぼ)がみつかりました。 方形周溝墓は3基以上あり、そのうち、全体が判別できるものでは、一辺の長さが6mほどあります。墳丘の上で3人以上、溝の中に3人以上の人が埋葬されていました。また、別の方形周溝墓では、周囲の溝の中から、墓に供えられたものと思われる土器がたくさん出土しています。 縄文時代の土器棺墓は、土器を棺にしたもので、今から4000年前頃の縄文時代後期の中津式と呼ばれる縄文土器を用いて、造られたものです。写真の土器棺墓は、深鉢をまっすぐ立てた状態で埋めたあと、上から浅鉢をかぶせて、蓋をしたものです。このような土器棺墓は、合計4基ありましたが、いずれも深さ30〜40pほどで、そう大きなものではありませ |
![]() 方形周溝墓 ![]() 方形周溝墓 溝内土器出土状況 ![]() 縄文土器土器棺墓 |
| ん。おそらく乳幼児が葬られたのでしょう。 加茂遺跡では、これまで、縄文時代の遺物が発見されることはありましたが、遺構が発掘されることはほとんどありませんでした。このたび、縄文時代後期の遺構である土器棺墓がまとまって発見されたことから、この周辺で、縄文人が生活を営んでいたことが明らかになりました。また、縄文時代後期の土器棺墓は、兵庫県下でも数遺跡が報告されているにすぎず、極めて貴重な発見 となりました。 |
![]() 文化財愛護 マーク |
編集後記 震災から1年が過ぎました。あまりにも多くのものを失った深い悲しみが消えることはありません。今年は本格的な復興の年、「創造的復興」に、未来を、夢を託そうではありませんか。私たちも、もう一度しっかりと足元を見つめ、街の復興に努めたいと思います。◇平成7年は全国的に注目された遺跡・遺物の発見が相次ぎ、今号はその一部をご紹介しました。◇経巻が完全に残っていた勝雄経塚や、山直の文字が刻まれた土器を出土した投松窯跡群など、今回紹介出来なかった遺跡は、次号に掲載する予定です。ご期待下さい。 |
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