淡路だんじり唄の歴史


 

  淡路だんじり唄は、淡路島の風土、島民の人情風俗の中に生まれ、愛され伝承されてきたもので淡路人形浄瑠璃とともにふるさとの心であります。
 また、だんじり唄は、太鼓と拍子木でリズムをとりながら、グループで浄瑠璃や歌謡浪曲の外題のクライマックスシーンを、独特の節回しで情感豊かに唄い上げるものです。
 そして、このだんじり唄は各地域の春祭りで、町内から繰り出される豪華なふとんだんじりの前で唄われ、神社に奉納されるものです。
 淡路島では、2月下旬から5月上旬にかけて、毎日曜日にどこかの神社から春風にのってだんじり唄が聞こえてきます。
         


1.だんじり唄の起源と変遷

初期
 淡路島に台尻(壇尻の始め)が入って約300年になる。だんじり唄の始めの頃(1743年)は簡単なハヤシをしていた程度で、江戸の末期、明治の始め頃から甲(かん)乙(おつ)入りで唄らしくなっていった。明治15年頃ふとんだんじりが造り出されたのを機に、浄瑠璃の各外題・各段切の中の劇的最高潮の場を抜き書き、またはつなぎ合せて一曲ずつ作り出された。この業は当時淡路島には多くの浄瑠璃語りがいてできたもので、節付けもまちまちで一名市節または吉田節と名付けられ唄われてきた。人はまたこの唄を端唄とも呼んでいた。

第二期
 大正12年5月1日、三原郡三原町神代社家にある上田八幡神社の拝殿改築完成を記念して盛大な祭典が開催された。
  大祭には、氏子ほか近郷近在のだんじりおよそ30台が集結し、群衆は約3万人、この時出場していた同村篭池地区が「傾城阿波の鳴門巡礼歌の段」を唄い、浄瑠璃そのままにお弓、おつる親子の哀話を唄の名に言葉を入れて熱演、群衆は滂沱号泣、その反響は、たちまち三原郡内を席巻、以来、各町村相競って言葉入りの唄に変化、民謡としては全国において見る事も聞く事もない特異なものとして体系づけられた。
 右のように唄の中に初めて言葉を取り入れたのは、前記篭池地区の浄瑠璃語り豊竹内近太夫(本名木田利衛門)であった。


第三期
 昭和9年秋、太鼓のリズムにのりやすく作曲された節回しが三原郡南淡町阿万から起こり、これは阿万節と名付けられ、その後、阿万東町桑島氏らの指導によって三原郡内各地域に普及していった。
 このように年代を追って淡路島のだんじり唄の表現内容が変化し、地域の誇れる伝統芸能として今日に至っている


第四期 
  終戦後も各町村の祭礼団でだんじり唄は唄い継がれていたが、高度経済成長の流れにともない、若者の島外流出が激しくなり、祭りを盛り上げるだんじり唄も低調になった。また、往時の熱狂的な愛好者も少なくなり、保存伝承が憂慮されていた。
 昭和50年頃から各町で祭り再興への気運が高まり、三原町、南淡町においてだんじり唄保存会等が設立されたり、若者に唄いやすい新作物のだんじり唄が作られるようになった。
 そして、平成元年3月に県立淡路文化会館で全島規模の第一回淡路だんじり唄コンクールが開催された。
 なお現在、淡路島内には三原郡を中心に約80に及ぶ祭礼団や保存会・子供会などのグループがある。
 そして、外題は約100を数え、有名なものとしては、「傾城阿波の鳴門巡礼歌の段」、「玉藻前旭袂三段目道春館の段」、「絵本太功記七段目杉の森の段」及び「仮名手本忠臣蔵」の各段などがある。また、同様な節回しによる新作物として、「岸壁の母」「王将」「大利根無情」「刃傷松の廊下」などがある。




2.島外での発表記録

 昭和8年8月に、南淡町賀集福井子供会が当時のJOBKでラジオ放送した。
 昭和53年8月に、南淡町福良だんじり唄愛好会が北海道(三石町・静内町・平取町)における郷土芸能友好公演に出場した。
 昭和54年11月に、三原町青年団が全国青年大会に県代表として出場し優秀賞を獲得した。
 昭和55年9月に、文化庁から要請をうけ、三原町青年団が東京国立劇場で開かれた第4回全日本民謡祭に出場した。
 昭和62年11月に、三原町青年団が全国青年大会に県代表として出場した。
 平成4年1月に、南淡町賀集婦人会だんじり唄愛好会が農協婦人部40周年記念全国大会(東京九段会館)で公演し、絶賛を浴びた。
 平成4年2月に、三原町だんじり唄保存会青年部がアジア・太平洋うたとおどりの祭典に出演した。
 平成5年11月に県立志知高等学校郷土芸能部が伊丹市で開かれた第17回県高校総合文化祭で熱演した。
 平成6年8月に、県立志知高等学校郷土芸能部が愛媛県の宇和町で開かれた第18回全国高校総合文化祭に出演した。
 平成6年9月に、三原町だんじり唄保存会青年部がアメリカのカーネギーホールで開かれた「日本の祭典・インニューヨーク」で熱演した。
 平成8年8月に、県立志知高等学校郷土芸能部が北海道の札幌市で開かれた第20回全国高校総合文化祭に出演した。