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第3学期始業式(H31.1.8)校長挨拶

 皆さん、明けましておめでとうございます。いよいよ新しい年が始まりました。先日の報道によると5月1日の皇位継承に伴い、新元号が4月1日に発表されるそうです。今年はまさに「終わり」と「始まり」の年となります。

 さて、平成という一つの時代が終わろうとしています。個人的には県の教員として採用されたのが平成元年なので、私の教員生活は平成という時代とともにあります。振り返ってみると教師に成り立ての頃手に入れた「ワープロ」をはじめ、「パソコン」、「携帯電話」、「スマホ」、「デジカメ」……と、平成という時代は様々な情報機器、つまりハードの進歩と、インターネット、SNSAiなどソフトの飛躍的な発展の時代だったということができます。また、同時に阪神淡路大震災や東日本大震災など災害の時代でもありました。

明治の文豪、夏目漱石の作品に「夢十夜」という夢を題材にした小説がありますが、彼はその「第六夜」で、こんなことを書いています。

 ある日鎌倉時代の運慶が仁王像を彫っているというので見物に出かけた。事も無げにのみを振るい見事に仁王を彫っていく姿に感動していると、近くにいた若い男が、「運慶は仁王を彫っているのではなく、木の中に埋まっている仁王を彫り出しているのだ」と言った。その言葉を聞いて自分にも仁王が彫れるのではないかと思い、家に帰って薪にする木を彫ってみたが、どの木にも仁王は見当たらない。「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」と悟るのという話ですが、この「明治の木」というのは「明治という時代」の象徴です。「仁王像」は芸術作品です。つまり漱石は明治という時代から芸術は生まれないと嘆いているのです。

明治は「開国」、「文明開化」の名の下に、自国の文化や芸術を投げ出して西欧化していった時代です。近代芸術の手本としてこぞってその技法を学んだゴッホの色使いが、江戸時代の浮世絵から学ばれていたというのは皮肉な話です。

 平成という時代の終わりにあたって、私たちも漱石のように、この時代の成果と反省を新しい時代に生かさなければなりません。一つは、「スマホ」に代表されるように、便利さを手に入れたと同時に、顔が見えないコミュニケーションの怖さを知ったこと。次に、防災の知識や備えの大切さを知ったこと。そして、それでもなお「人ごと」意識から逃れられない危うさなど。

 漱石は「第六夜」の結びで「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった」と書いています。運慶のように時代を超えて生き続けなければならないものとは何でしょう。それはめまぐるしく変化した平成という時代だからこそ見えてくるのではないでしょうか。私は「周りに流されることのない感性」や「誠実さ」、「自分らしさ」が平成の「運慶」ではないかと思います。皆さんも是非考えてもらいたいと思います。