静龍姫塚 伝説

作 今西昭三郎(元神戸聾学校教頭)

 昔々のことです。地蔵平の丘の上に草屋根の屋根葺きがとても上手な若者の家がありました。彼の腕を見込んであちこちから遠くは明石の方からも、屋根葺きの仕事が入ってきて毎日忙しく働いていました。そのため家に帰ってくるのはいつも暗くなってからで、田圃や畑に挟まれた狭い道を蛙の合唱を聴きながら帰っていました。

ある晩のことです。一日の仕事に疲れ果ててぐっすり眠っていたところ、夢の中に一匹の白蛇が出てきました。そして若者に「私は地蔵平に住んでいる白蛇でございます。実は先だって、あなたがこの先の家の屋根の葺き替えをされたとき最後に上げられた藁束の中で休んでいたところ、そのまま屋根に上げられ、くくりつけられてしまい身動きできなくなっています。このままでは死んでしまいます。どうか縄をほどいて助けてください。」と言うのです。若者は朝、目が覚めて変な夢だったなあとは思ったのですが、夢の中の話だからと思い気にもとめず、その日はそのまま仕事に出掛けていきました。ですが仕事に出掛けようとするとき、何か心に引っかかるものがありました。次の日、若者はそれでもと思い、いつもより早く家を出て先日葺き替えた屋根に上らせてもらいました。慣れた手つきで言われた藁束をゆるめて開いてみると、そこにぐったりと弱り果てている白蛇がいました。若者は夕べの夢は正夢だったのだと思いました。若者は子どものころから、白蛇は神のお使いをする蛇だと話されているのをよく聞いていたので、そっと取り上げ屋根をもと通りに直し、地蔵平の松林に行き「悪かったね、ごめんよ、早よう元気になれよ。」と言って松林の中に放してやりました。

若者の屋根葺きの仕事は冬を迎える秋になると、あちらからもこちらからも仕事が入ってきて、引っ張りだこの忙しさでした。そのため、白蛇を助けてやったことなどすっかり忘れてしまっていました。それから何日かたったある日のこと、仕事を終えていつものように暗くなって帰ってきました。そしていつも通る地蔵平の松林のそばを通りかかると、今までに出会ったことのない美しい娘が道端に立っているのに出会いました。若者は「なんて美しい娘だろう! この辺では見たことがないが、それにしても何の人気もないこんな暗いところで出会うなんて! どこの娘でどこへ出掛けるんだろう。」と思いながら、声も掛けずに娘の前を通り過ぎ家に帰ってきました。次の日も同じように仕事を終えて暗くなって帰ってくると、昨日と同じところで同じ娘に会いました。それから何日か同じように出会う日が続きました。そのうちに若者は、この娘に会釈をするようになり声も掛けるようになりました。そして、若い者が誰もが感じるように娘に親近感を持つようになりました。その娘は、暗くなった夜でも透けて見えるほど色白で美しい姿をしていました。若者は、こんな娘が自分の嫁になってくれたらいいのだがなあと思うまでになりました。そうするうちに二人は若者の休みの日になると、連れ立ってあちこちに出掛けるようになり、村でも話題にのぼるようになってきました。

やがて秋も深まり日の沈むのが早くなると、若者の屋根葺きの仕事はますます忙しくなってきて、二人の逢い引きもままならない日が続くようになってきました。それでも若者は次に会える日を約束し、それを楽しみに忙しい仕事にもますます力を入れ張り切って仕事をしました。

一緒に出掛けたある日の帰り、いつものように次に会う日を約束して帰りました。その日には若者は、心を決め娘に「自分の嫁になって欲しい」と言うつもりでした。

その約束の日が来ました。ところがその日はあいにくと、朝から風雨が強く、仕事にも出られないくらいで、天候がよくなるのを家で待っていました。ですが、お昼を過ぎるころからは雨風共に更にひどくなり、外へ出られるものではありません。それどころか垂水を流れるたった一つの福田川が、奥から流れてくる雨水でだんだん水かさが増し、今にも溢れそうになってきました。夕方近くになると、雨も風も多少弱まってきましたが、奥から流れてくる水の量は更に増え、とうとう福田川の水が溢れ出し、田や畑は水浸しになってしまいました。そのうえ、海に向かって流れる水の勢いは更にすごく強くなってきました。

やがてその日も薄暗くなり、娘と会う約束の時間が近づいてきました。しかし溢れ出た水の勢いは一向に衰えそうにありません。ますます強くなってきて、村の家々が流されてしまうのではないかと思えるほどでした。家から外へ出ることはとてもできません。一方、娘のほうは約束の時間が近づいたので、やがて雨も止むだろうと思い、いつもの出会いの場所である地蔵平の松林で、雨を避けながら若者が来るのを待っていました。しかし、約束の時間になっても若者は来ませんでした。それでも遅くなっても来てくれるだろうと思い、地蔵平の丘から水に浸かっていく村の家々を見下ろしながら待ち続けました。でも若者の来るのがいつもと違ってあまり遅いので、若者の家が見下ろせる丘の端へ行ってみました。娘が行った場所には、地蔵平でもめだって大きい、天にも届きそうなほどの大きな松の木がそびえていました。そこから若者の家を見て驚きました。若者の家にも大水が押し寄せ、家の半分は溢れた水に浸かり今にも流されそうでした。娘は「これは大変だ。この水を何とか堰き止めないと。」と思いました。その時です。黒い雲の間から、ものすごい稲光と雷が鳴り響いたと思ったら、娘が立っていたそばの大木が、地割れと共にゆっくりと村の田圃の方へ倒れていきました。すると、この倒れた松が村に襲いかかっていた大水の勢いを弱め、流れを迂回させ始めました。水に浸かっていた村の家々も、若者の家も、流されずに助かりました。

次の朝になると、昨日の嵐は嘘のように空は晴れわたり、うって変わったいいお天気になりました。村の人たちは横たわっている松の大木を見に集まってきました。そして口々に「この大木が大きな水害になるところを助けてくれたんだ、ありがたいことだ。」と話していました。その人たちの中にはもちろん、屋根葺きの若者もいました。しかし若者は、倒れた松が地蔵平の丘にそびえていた松であり、娘との待ち合わせ場所に行けず雨の中、長く待たせたのではないかという悔やみ切れない思いで見ていました。そこで急に思いついたのは、もしかしてあの娘が夕べの雷に打たれていなかっただろうかと心配になってきました。そう思うと急いで地蔵平の丘へ上がっていきました。そこには太い松の根が、抜き取られたように辺り一面の土と共に跳ね上がって倒れていました。「これはひどいもんだ、ものすごいなあ」と感じながら、倒れた松の木の根元の方に目をやったときです。木の下の泥の中に綺麗な白いものが見えました。四方に広がっている泥の中でも一点の汚れもありません。不思議に思った若者がそばに近づいてみると、それは綺麗な白い蛇でした。よく見るとその白い蛇は、大木の下敷きになって息絶えていました。そっと取り出してよく見ると、この前、屋根から助け放してやった白い蛇でした。そこで若者は夕べの約束のことが急に思い出され、ハッと気付きました。出会う約束がいつもの地蔵平の丘であることや、あの娘がどこか普通の娘と違って見えたことなどを合わせて考え、あの美しい娘は、この白蛇だったに違いないと思いました。屋根の藁束から命を助けてもらった恩返しに、自ら犠牲になって私を助けてくれたに違いないと思いました。それを思うと若者は、これからは娘と会えなくなった失望感と、一方では感謝の気持ちも強く、それが交錯しながら湧き上がってくるのを押さえることができませんでした。そのままその場にうずくまって手を合わせていました。

それから数日後、松の片づけに集まっていた村の人たちにこのことの今までの一部始終を話し、なくなった白蛇を供養しようではないかと話し掛けてみました。村人たちは死んだ白い蛇が言い伝え通り神様に仕えていた白蛇に違いないと話し合い、みんなで丁重に葬り弔ってやることになりました。その後、松の大木が立っていた場所に記念碑を建て、静龍姫塚として、いつまでもその感謝を忘れずに功績を称えることにしたということです。

あとがき
 この塚について知っていることを述べると、神戸聾学校創設当時は、運動場の東端の南北に通る農道のすぐ上に東の方を向いて建っていました。(今の寄宿舎へ降りる階段の横に)大きな白っぽい自然石を並べた台座の上に、高さ1メートルほどの砲弾型をしたこれも同じ自然石で記念碑のような形で建っていました。

 この塚の前面には2段ほどの石段があって、その上にセメントで固められていました。当時の運動場は、今の小学部の校舎が建っている場所でした。現在の運動場と合わせてこの平地を「地蔵平」(聾学校の旧地名は西垂水町地蔵平)と呼んでいました。この地蔵平から今のバス道までは鬱蒼とした松林でした。運動場にはしばらく松の大木が残っていて、古い卒業生の話では、毎日松の木を切り倒し運動場にしたといっていました。(私が神戸聾学校に来たころは、学校の周りにはまだたくさんの松の木がありました。)

 太平洋戦争が始まってから、先生と子どもたちが勤労奉仕で機械油にする松根油を採るために、残った松を切り倒したり木の根を掘り上げたりしたそうです。現在の寄宿舎がある土地も、昭和35年までは野菜畑でした。

 昭和38年、現在の校舎敷地(元は田圃や畑)にするための田畑買収の話があり、どの辺りまで買い取ればいいか、当時の校長と共に田圃や畑を見て回りました。今の校地の工事が始まるまでは毎年、大きな台風や長雨が続くと、その都度福田川が氾濫し、現在の校地も含めて、辺り一面水に埋まり田も畑も見えなくなっていたので、川の近くまでは買わないほうがいいと校長に言いました。改修前の福田川は堤防の幅が4メートルほど、川の流れの幅は1メートルほどしかありませんでしたので水がすぐに溢れました。

 姫塚については先輩の先生やこの塚にお参りに来た地区の人たち(東垂水の人が多かった)にその由来を聞いてみましたが、断片的な話ばかりでこれと思う話は聞かれませんでした。語り継がれてきただけで、文字に残っていなかったからだと思います。聾学校創設当時から勤めておられたK先生(故人)のお宅が学校の近くだったので、ご存知かと思いお聞きしましたが、「大きな木が倒れて水害を防いだ。村の者が倒れた木を見に行ったら、木の下敷きになって白蛇が死んでいた。この蛇が木を倒して水害を防いで村を救ってくれた。村の人たちがこの碑を建て供養した。」程度の短いものでした。ただ、どの話にも共通して出てくるのは、大洪水を防いでくれた白蛇の塚だと言うことでした。

 話は別になりますが、今の寄宿舎を建てるとき階段を作るのに姫塚が邪魔になるからと場所を移転しました。ところがその場所が幼稚部・小学部の校舎を建てるため、再度移転することになり、今の位置に移したんだそうです。当時私は、湊川校舎にいましたから聞いた話ですが、この移転作業に中学部高等部の若い先生たち数人が関わったそうです。作業した全員が急に腹痛を起こしましたが原因が考えられず、海神社(垂水駅近くにある神社)に頼んでお祓いをしてもらったら全員治ったそうです。お祓いなんて迷信だといって作業に掛かった若い先生たちにはショックだったということです。

 この話は、私が聞いたいくつかの断片的な話を継ぎ足して物語風に綴ったものです。話をつなぎ合わせるために、私の勝手な創作が入りますがご了承ください。聾学校の関係者だけでなく、垂水の人たちの多くがこの話を知ってくだされば今のような状態に置かれている蛇姫様もうかばれるのではないでしょうか。一度盛大にお祭りをしてあげてはいかがでしょう。

 この話を知人に話したところ、垂水はこれといった伝説のないところだから文章にして残しておいた方がいいと言われ、このように綴ってみました。またこのとき知人から、こういう話は全国のあちこちにあり、木が東に倒れたんだったらそちらの方の山に雄の蛇塚があるのではないかと言われました。東のその方向の東垂水には、地域の人たちのお墓ばかりでちょっと見ただけではわかりませんでした。今はその墓地も新しい住宅が建ち、学校からも見えなくなりました。もっとよく探せば見つかるかもしれません。もし見つかれば私のこの話は、筋書きを変えないといけなくなります。

もどる