第7章 「心の教育」の課題と展望
                   小林 宏(心の教育総合センター)


はじめに

「心の教育」の必要性や重要性が叫ばれて既に久しい。書店には「心の教育」に関する書物が多く出回っているが、その「切り口」は多様である。少し乱暴な区分をすれば、「心の教育」に関する書物は大きく3つに分類される。
 第1の区分は伊藤(1992)の主張にみられるように、学校教育や家庭教育総体において「子どもたちの心に愛を育てる」等の「視点や観点」からの見直しが必要だとする「心の教育の必要性を説く」書物の群である。
 第2の区分は木川(1997)のように、「心の教育」の必要性は当然として、「いかに児童生徒の『心』に響かせるか」をテーマに、効果的な教育説話を紹介する書物である。また、「生と死」の観点から児童生徒に「では、いかに『今』を生きるべきか」をともに考えようとする兵庫・生と死を考える会(1999)の「生と死の教育」もこの区分に近い。
 第3の区分は、國分ら(1996 a,b)、冨永・山中(1999)らに代表される心理学(カウンセリング心理学・臨床心理学等)の理論や技法を特別活動・ロングホームルーム等の「授業」に組み込むことを奨める群であり、本書もその区分に入る。これらの群は、広い意味で「心理教育(サイコエデュケーション)」の群ということが可能であろう。
 どのような「切り口」が良いか良くないかは不毛な論議であろう。どのような「切り口」であれ、それが児童生徒の「心」や「心の問題」にどれだけ迫れるのかが課題である。
 本論においては、「心の教育」の「切り口」として第3の区分、すなわち広い意味での「心理教育(サイコエデュケーション)」を中心とする「心の教育」の現状と課題にふれ、今後の在り方を展望してみた。


1 心理教育(サイコエデュケーション)とは
 心理教育とは児童生徒に「心理学」を教えることではない。心理学の理論や技法を教育に援用することである。
 岡林(1997)は、「これまでの教育が、受験的な知識、試験に合格するためのノーハウ(know how)に偏り、いろいろな弊害が出てくる中で、教育の本来のあり方、人間を育てるということに焦点付けようとするのが、心理教育(Psychoeducation)である。」とし、「子どもたちが『思いやり・共感』の欠如によって、いじめなどの攻撃性の問題が起こり、社会適応できなくなってきている、という考え方が一般的になってきた。そこで、そのような状況に対応するために考えられたのが、心の教育という意味での『心理教育』である」としている。
「教育」の「教」と「育」を分割して捉えれば、確かに、従来の学校教育は「教」重視の教育であった。しかし、近年の新たな教育課題は、「新しい学力観」「生きる力」「生き方・あり方の教育」「心の教育」と、「育」の観点を重視しなければならないものばかりである。
 児童生徒の内面を「育てたり」「育んでいく」ことは「教え込む」ことだけではできない。例えば、上述の「心の教育」の第2の区分群でも、教師自身が教材となる教育説話に心動かされた体験がないと、授業は平板なものとなろう。さらに教師の「心動かされた体験」はそのまま児童生徒に伝えようとしても伝えにくい場合が多い。自らの「感動体験」の心的過程を客観的に分析し、児童生徒の発達過程に応じた授業を構成していく作業が必要となろう。また、「生と死の教育」も兵庫・生と死を考える会(1999)が言うように、教師自らが自分なりの生死観を確立していなければ、児童生徒の「心」に届く授業とはなり得ないだろう。
 その意味で、これら教育説話を用いたり、「生と死」の観点から生き方を考えようとする取り組みも、教師自らの心的過程の分析や児童生徒の「心」の発達段階に関する深い洞察が必要であり、心理学関連領域と無縁ではすまされず、児童生徒の「心」を育てるには、教育と心理学との結びつきが必要なのである。
 つまり、心理教育とは、このような学習−教育(主たる形態としての「授業」)と心理学関連領域との有機的な連携を図ることによって可能な人間教育であり、岡林(1997)が言うように、「心理教育とは、学習−教育というフレームから人間の心の治療、問題発生予防、発達を見ていこうとするもの」なのである。
 具体的な心理教育(サイコエデュケーション)について、國分(1998 b)は「構成的グループエンカウンター以外にも、1対1の面接ではなく、集団を対象に行う方法がある。例えば、将来の進路や人生計画を考えさせるキャリアガイダンス、自分の言いたいことを言えるようにする自己主張の訓練やつきあい方を学ぶ集団教育、子供の共通体験(いじめやけんかなど)をテーマに寸劇をした後で仲間で話し合うロールプレーなどである。これらを総称してサイコエジュケーション注1(心理教育)という」とまとめている。
 また、國分(1998 a)は、サイコエデュケーションと従来の伝統的なカウンセリングを比較して、以下のように述べている。すなわち「つまり、サイコエジュケーションとは、@集団に対して、A心理学的な考え方や行動の仕方を、B能動的に、教える方法である。したがって伝統的なカウンセリングの方法が、@個人対象に(1対1の面接法)、A洞察・試行錯誤・模倣のために、B受身的に、C解釈や傾聴を主としていたのとは対照的な方法である」と述べ、「集団対象に指導的な行動をとっている教師にとって、サイコエジュケーションはなじみやすいと思われる」と指摘している。


2 心理教育(サイコエデュケーション)と「心の教育」

(1) 学校におけるカウンセリングの見直しとサイコエデュケーション

 このように近年、学校教育現場における児童生徒の「心」に働きかけるさまざまな授業案が紹介されている。それに伴い、それぞれによって、新しい観点からの理論が提唱され、それぞれに新しい概念や「ネーミング」が登場している。あまりに多くの概念や「ネーミング」が登場している。大枠は上述の「サイコエデュケーション」という概念に集約されつつあるが、それまでの経緯を簡単に整理しておこう。
 まず、第1に、「開発的カウンセリング・予防的カウンセリング・治療的カウンセリング」という枠組みの概念である。この中で、特に開発的カウンセリングの重要性が論議されるようになったのは、文部省の「スクールカウンセラー活用調査研究委嘱事業」が導入(1995)される前後からである。
 スクールカウンセラーの学校教育現場への導入に伴い、「学校におけるカウンセリングは、クリニック等で行われるような『治療的カウンセリング』のスタイルで、あるいはそれだけでいいのか」という疑問が生まれたが、同時にそれは「従来の教師による教育相談やカウンセリングも『治療的カウンセリング』に偏っていたのではないか」という教師側の反省でもあった。また、ちょうど児童生徒の人間関係のスキルや、総じて社会的スキルの発達の弱さが問題として論議されていた時期である。「すべての児童生徒の一層望ましい発達を支援する方法としての開発的カウンセリング」や「児童生徒のいずれもが経験する発達上の課題に、あらかじめ課題に対応できるスキルや方途を身につけるよう支援する予防的カウンセリング」は、当時の教育課題としても重要だったのである。

(2) 構成的グループエンカウンターを中心としたサイコエデュケーション
 このような開発的カウンセリングや予防的カウンセリングには、個人への適用と集団への適用とがある。集団への適用事例として構成的グループエンカウンターの手法を紹介したのが先述の國分ら(1996 a,b)である。当初、これらは構成的グループエンカウンター一色であったが、続編の國分ら(1997a,b)では冒頭の「用語解説」に初めて「サイコエジュケーション」の用語が掲載され、やがてサイコエデュケーションが構成的グループエンカウンターの上位概念であるとの定義がなされている。つまり、國分(1998 a)によれば、「サイコエジュケーションの学習形態としては授業方式(訓話・情報提供・説明)、ワークショップ方式(ロールプレイ、エンカウンター、スキル訓練)、メディア方式(パンフレット、ビデオテープ)がある」と幅広い定義が行われ、サイコエデュケーションは「予防・開発的カウンセリングのグループ版といえる」としている。
 ここで、國分らの概念や「ネーミング」についての整理をしておこう。

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  図1 國分ら(1998 a)による概念構造の図式

 図1からわかるように、國分らは学校教育現場において教師にとって最も重用視されるべきカウンセリングとして開発的カウンセリング・予防的カウンセリングがあり、これらを総称して「育てるカウンセリング(國分らによるネーミング)」としている。育てるカウンセリングには、個人レベルと集団レベルがあり、集団レベルのカウンセリングをサイコエデュケーション(心理教育)と呼び、新しい教育課題である「心の教育」の具体的内容はサイコエデュケーションであるとしている。
 國分らの取り組みは、構成的グループエンカウンターを用いた教師による集団レベルの開発的・予防的カウンセリングの実際の手法を提供するとともに、構成的グループエンカウンター以外の手法をも積極的に取り入れたこと、さらに学校における心の教育分野の理論的枠組みを提供したことなど、先駆的な役割は大いに評価されるべきである。
 ここでの問題は、サイコエデュケーションの概念として「授業方式(訓話・話題提供・説明)」を包括するのはよいとしても、その上位概念である「(『育てる』等)カウンセリング」に「訓話」等を含んで良いのかという問題が残る。先述したように、「訓話」等を心の教育として実施する際にも児童生徒の発達段階の考慮等を十分に勘案して実施するべきことは触れたが、本来「カウンセリング」と「訓話」は相容れないところがある。せっかく教育の世界に新しい「枠組み」と斬新な実践手法を提供していただいているので、今後の整理課題として検討していただければと思う。

(3) ストレスマネジメントを基礎としたサイコエデュケーション
 一方、國分らが「学校における教師の行うカウンセリング」からサイコエデュケーションをはじめ新しい教育の枠組みを構築しているのに対し、國分らとは異なる枠組みから「心の教育」を捉える立場の主張に、冨永(1999)、冨永ら(本誌別掲)がある。
 冨永(1999)は、新しい教育課題である「心の教育」から従来の教育の在り方を捉え返すとともに、新しい観点からのサイコエデュケーションを提唱し、学校と地域の協力に基づく社会体験や自然体験をも「心の教育」の重要な取り組みとして「心の教育」の枠組みを提供する。したがって、冨永(1999)にとって、教科教育も「心の教育」という新しい教育課題からの捉えなおしが必要である。次のように述べている。「心の教育は、身体、精神、感情の持ち主である主体、すなわち『心』の望ましい活動様式を培うとさきに定義した。だから、教科教育は成績といった結果だけを求めるのではなく、自己効力感をいかに培うかが問われる」。文部省のいう「新しい学力観」で求められる「関心・意欲・態度」は、児童生徒の自己効力感の発達形成に由来することを考えれば、冨永(1999)の主張は新しい学力観にも符合する。以下に、冨永(1999)の「心の教育」の枠組み、及びその中心概念となる「心の授業(冨永らによるネーミング)」の構造を見ておこう。図2,3を見てほしい。図2から、冨永(1999)の「心の教育」の枠組みは、学校教育のみならず地域の教育力の協力を得て実施される中学生の長期社会体験学習である「地域に学ぶ『トライやる・ウィーク』」等をも含む幅広い枠組みである。「地域に学ぶ『トライやる・ウィーク』」については、古田・小林(1999)、古田・住本(2000)、小林(2000)に詳しい。ここでの詳述は避けるが、「心の教育」は一人学校のみが抱え込むのではなく地域や家庭の教育力との連携を図ることの重要性を指摘するにとどめたい。
 一方、冨永(1999)のいう「心の授業」とは基本的にはサイコエデュケーションであり、「心の授業」≒サイコエデュケーションと考えて良い。サイコエデュケーションという横文字が教育現場にスムーズに受け入れられ定着していくだろうかとの懸念から、このような「ネーミング」を行った。概念的には「授業において実施されるサイコエデュケーショ

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図2 教科教育と心の授業と心の教育       図3「心の授業」の3つの内容

ン」であり、「サイコエデュケーション」という言葉が定着していくか「心の授業」という言葉が定着していくかは、今後これらの実践を自らの授業実践に取り入れていこうとする人々の好みに委ねられる事柄である。重要なことは、國分らのサイコエデュケーションの方略と冨永らの違いである。既に見てきたように、國分らは構成的グループエンカウンターを中心としており、したがってよりよい人間関係の形成を主眼としているのに対し、図3からも冨永らは個人のストレスマネジメントを基礎とし、その上によりよい人間関係の形成や自己発見・自己開発を目指しており、冨永らのサイコエデュケーション(心の授業)は、個の確立を主眼としていると言える。

(4) 学校教育とサイコエデュケーションの理論的枠組みとの摺り合わせ
 なぜこのようなことを論じるかというと、第1に、これだけ多くの「授業案」が出版されると安易な気持ちで授業に導入しようとすることを憂慮するのである。教師にとって一つひとつの授業は「命」であるといっても過言ではない。例えば国語の授業においても、年間目標をもとに年間計画が立てられ、さらに単元ごと各授業時間ごとの目標やねらいが設けられ、それらに沿って、また児童生徒の実態に応じた留意事項やさまざまな工夫がなされる。上述のサイコエデュケーションと総称される授業も、クラス経営において児童生徒の実態や課題から立てられた目標やねらいと個々の授業との関係が十分にねられ、十分に両面双方からの検討が必要なのである。それがなければ個々の授業は単なる「打ち上げ花火」に終わってしまう可能性が高い。個々の授業の「評価」に基づく目標や方法へのフィードバックも十分に機能しないことも危惧される。このことについては、具体的な例をあげて後述しよう。
 また、このことは、個々の教師の課題だけではない。従来、臨床心理学や心理学領域の理論や技法を援用したさまざまな授業案が紹介され、学校教育現場において試行的にまた個々に導入されてきた。しかし、それらは個々の理論や技法の紹介にとどまり、それ以上に学校教育現場に広まらなかった。そのことにはさまざまな原因が考えられるが、一つにはそれぞれのワークの人間観やワークの目標やねらい、すなわち「枠組み」が、学校における教育目標や課題と十分に摺り合わされなかったためではないかと思われる。摺り合わせの為には、サイコエデュケーション総体の枠組みの目標やねらいが明瞭であること、さらに個々の授業案やワークの「枠組み」内における位置づけやねらいが分かりやすくまとめられていることが必要であろう(しかも、それが一般の教師にもわかりやすく)。
 その意味で、國分らが構成的グループエンカウンターから入りながら、ソシアル・スキル・トレーニング等の構成的グループエンカウンター以外のワークを取り入れ、サイコエデュケーションという「枠組み」を設けたことは、学校教育への導入の検討を行いやすくした。これは冨永らの「枠組み」も同様であり、それらの目標やねらいが「よりよい人間関係の形成」や「ストレスマネジメントを基礎とした個の確立」にあり、それらの目標やねらいは、現下の児童生徒の実態・課題にも即している。
 既に見てきたように、「心の教育」の中心は、学校教育の根幹をなす「授業」に「心の教育」をいかに導入するかである。その際、最も有効な手段の一つがサイコエデュケーションであり、代表的なサイコエデュケーションの「枠組み」を二つ紹介した。近年の教育改革や学習指導要領の改訂は、それぞれの学校における実態や課題に応じたカリキュラムの創意工夫等の裁量枠の拡大を示している。学校においては國分らや冨永らの提唱するサイコエデュケーションの「枠組み」を参考として、それぞれの学校の実態や課題そして教育目標との摺り合わせを十分に行い、それぞれの学校に即した心の教育に取り組んでいくべきだろう。


3 サイコエデュケーション(心の授業)としての「心の教育」実践上の課題

(1) どのようにサイコエデュケーションと学校教育の目指すものを摺り合わせるか

 先に、これだけさまざまな「授業案」が出版されると安易な気持ちで授業に導入しようとすることを憂慮すると書いた。また、クラス経営における目標やねらいと新しく実施する授業案との関係が十分に検討されることが必要だと書いた。具体的には、事例集を見て「とりあえずやってみよう」ではなく、事例集を参考にしながらも、児童生徒の実態や課題、また、さらにクラス経営の目標やねらいに応じた「授業案」を組み立てて行くべきなのである。この作業が十分に行われていれば、優れた教育実践となろうし、例え思い通りの成果を得なくとも、どこに問題があったかを構造的にも評価することができる。好事例をあげてみよう。
 本誌にも実践事例報告を掲載している山田(1999)は、小学校教師として児童の友人関係が気になっていた。コミュニケーションが稚拙で、感情のおもむくままに相手を一方的に攻撃したり、あるいは一方的に攻撃されるのを避けるために自分を押さえて「受け身」的な対応をとる児童の存在等である。双方ともストレスをため込んでいる。山田は、「友だちと仲良く」と言う前に、そのためには何が必要かを考えた。児童の自己表現のまずさや乏しさが対人関係上の問題を引き起こしているのではないかと考え、エキササイズとしてのアサーショントレーニングにたどり着いた。しかし、小学校5年生という発達段階の児童にエキササイズをそのまま実施するのではなく、そのための段階を組み立てている。詳細は山田(1999)の実践事例の掲載されている「心の教育授業実践研究第1号」(当センター発行:兵庫県立教育研究所ホームページ www.hyogo-edu.yashiro.hyogo.jp にも掲載)を参照いただきたいが、山田は冨永(1999)の「心の授業(サイコエデュケーション)」の枠組みを援用して授業を組み立てている。攻撃的な自己主張は、その背景にストレスをみてとれるし、「受け身」的な対応もそれ自体ストレスフルである。アサーティブな自己主張を考えさせ、自己訓練させていくことと同時に、従来の対人関係や対人関係の「構え」とストレスの問題を考えさせ、小学生なりのストレス対処の方法を考え、身につけさせたかったからである。したがって、随所にストレスマネジメントのワークが効果的に組み立てられている。
 また、攻撃的か「受け身」的かを考えさせるために開発された現代的な16枚の葛藤場面の図版、攻撃的・「受け身」的な自己主張を体験させるための「擬態語」のワーク等、教師として児童の実態や課題を知悉しているからこその実践であると言える。また、山田の取り組みは、勤務校内の反響にとどまらず、翌年から所属教育委員会管内の全小学校に広がりを見せている。山田の取り組みが、ただ単にストレスマネジメントやアサーショントレーニングのための取り組みではなく、在任校や地域の実態・課題・目標に合致し、周囲にも分かりやすい枠組みを持っていたことが反響の大きさの要因だろう。
 このように児童生徒の実態や問題意識から出発し、学校教育における授業実践にいかにサイコエデュケーションを組み入れるかを考え、課題や目標に即した実践事例の積み重ねが必要となっている。

(2) サイコエデュケーションとしての授業の組立
 最後に、このような実践事例を組み立てていく際の留意点をあげておこう。
 先述したように、今後の課題として、「児童生徒の実態や問題意識から出発し、学校教育における事業実践にいかにサイコエデュケーションを組み入れるかを考え、課題や目標に即した実践事例の積み重ね」が必要と記した。ところで、日々の授業は教師による一斉授業であり、講義(説明や訓話)が中心である。例えば、日々の授業や日常の教師の「話」や「訓話」と個々の構成的グループエンカウンターのエキササイズとはどのようにつながるのだろうか。
 常日頃から児童生徒の対人関係の問題を何とかしたいと思っている教師が、毎日「訓話」だけを繰り返しても、なかなか児童生徒の「心」に響かないのが現状であろう。現代の児童生徒は、対人関係のさまざまな実体験など、実際の体験による経験が少ない。したがって、さまざまな疑似体験や部分的な実体験を効果的に取り入れながら(各種心理学の理論や技法を援用して)授業に生かしていこうとするのが教育現場におけるサイコエデュケーションである。簡単に言えば、授業に取り入れる構成的グループエンカウンター等のさまざまなエキササイズやワークは、あくまで「手段」なのである。國分(1988 a)が言うように、教育現場におけるサイコエデュケーションには「訓話」や「説明」が含まれるのは当然である。むしろ「日常の『訓話』や『説明』を、さらに児童生徒の『心』で感じさせるには、どんな『方法・手段』があるか」を考えて、さらに今度は「『方法・手段』の特性や限界を考慮してどのような『訓話』や『説明』が望ましいのか」を考え、相互を互いにフィードバックさせあっていくのが基本である。このような作業がなければ「ただ単に構成的グループエンカウンターの1エキササイズの紹介授業」で終わってしまったり、少なくとも先述の山田(1999)のような、年間計画に基づく継続的・発展的なサイコエデュケーションにはならないのではなかろうか。今後、「総合的な学習」を「心の教育」として年間単位で展望しようとすれば、このような観点からの取り組みが一層重要となろう。
 最後に、「方法・手段」として、どのようものがあるかを見る際、例えばさまざまなワークの「特性や限界」を考慮するための例示をあげておこう。
 種々の「実践事例集」を見ると、同じ様なワークが別のエキササイズとして登場する。最も代表的な例は「目隠し歩き(ブラインド・ウォーク)」である。最近は「福祉教育」のプログラムとしても登場するし、もちろん「構成的グループ・エンカウンター」の1エキササイズとしても用いられる。筆者が最初にこのワークを体験したのは、伊東(1983)のニュー・カウンセリングの実習であった。要は二人一組になって、一人(フォロアー)が目の見えない状態となり、他の一人(リーダー)がフォロアーを導くという作業を行うのであるが、その際の条件は「お互い口をきかないこと」である。基本的に同じワークであって、それぞれに違いはあるのだろうか。同じように見えても、ワークの目的が少しずつ異なるのである。
 例えば、「福祉教育」として行う場合は、「目の不自由な人の日常を実際に体験してみる」ということが一番大きな目的となるのではなかろうか。したがって、校種や学年によっては、「盗み見」をしないように目隠し(簡単な布きれでよい)を準備するのも良いだろう。また、一度目は「お互いに口をきかずに」と行っても、指導者に「目の不自由な人を誘導する際にどんな『言葉掛け』がいいのかを考えさせたい」という「目標やねらい」があれば、二度目は「お互いによく言葉を使って」と指示してもよいのではなかろうか。
「構成的グループエンカウンター」として行う場合は、基本的なねらいは「信頼感」「やさしさ」を体験的に味わってみることであろう。人に身を委ねる体験、人に身を委ねられる体験をお互いに話し合い、その気持ちを分かち合うことが肝要となる。言葉では簡単に「信頼感」とは言うものの、体験してみるとさまざままことに気づく。この「気づき」や「気持ち」をシェアリングによって共有することが目的である。体験事後のシェアリングが必須となる。このエキササイズが新しい学級での仲間づくりに用いられるのもそのためである。
「ニュー・カウンセリング」は、自らの心身の気づきや「からだでわかること」を大切にする。したがって、一人ひとりが「人を信頼するという心身の状態を体験する」ことを目的とした実習であり、実習の振り返りもそのことに焦点化して行われる。
 したがって、どのようなねらいや目的で「目隠し歩き(ブラインド・ウォーク)」を行うかの問題は、大きな問題であろう。
 これらの違いを理解し、自らの目指す目標やねらいとそれぞれの立場の目的やねらいとを見比べながら、自らの授業を組み立てていくことが必要だろう。そのような計画段階での緻密な検討が、これからの心の教育、とりわけサイコエデュケーションと総称される分野の一層の切れ味(どれだけ児童生徒の心に迫れるか)を生むと思われる。
注1) 國分ら(1998 a)の標記は「サイコエジュケーション」となっており、引用部分は原文を引用し、他の標記は「サイコエデュケーション」とした。

【引用文献】
1 兵庫・生と死を考える会 生と死の教育 1999 連絡先:英知大学人間学研究室
2 伊東博  ニュー・カウンセリング 1983 誠信書房
3 伊藤隆二 こころの教育14章 日本評論社 1992
4 木川達爾 心の教育とは何か ぎょうせい 1997
5 國分康孝a(監修) エンカウンターで学級が変わる 小学校編 図書文化 1996 
6 國分康孝b(監修) エンカウンターで学級が変わる 中学校編 図書文化 1996 
7 國分康孝a(編集) サイコエジュケーション(学級担任のための育てるカウンセリング全書2)図書文化 1998
8 國分康孝b「育てるカウンセリングの勧め」 朝日新聞「論壇」平成10年4月23日付け記事 1998
9 岡林春雄 心理教育 金子書房 1997
10 冨永良喜・山中寛 動作とイメージによるストレスマネジメント教育 展開編  北大路書房 1999
11 山田良一 「小学校におけるアサーショントレーニング」 心の教育事業実践研究 第1号 兵庫県立教育研修所心の教育総合センター 1999

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