1 スクールカウンセラーの立場から
                        武庫川女子大学 助教授 馬殿禮子

  「今、この時期に、なぜスクールカウンセラーか。」ということを私たちは押さえていかなければなりません。
  これまで、学校という世界は生徒と教師が中心の世界でした。教育のレベルアップでその成果は評価されながら、昭和50年代に不登校の問題が浮上してきました。60年代になるといじめの問題がでてきました。それらが大きな社会問題になってきた中で、 教師は一生懸命、熱意を持ってその問題に努力をしてきました。だけれども、それらは増加傾向にある。そのような中で、「教師は頑張ってきたが、その他に方法はないだろうか。」という状況で、「スクールカウンセラーの活用」という問題が 出てきたと思うのです。
 現場ではその間、教師は教師役割だけをとっていたわけではなく、教師カウンセラーとして本当にたくさんの成果をあげてきたことが報告されています。しかし、教師が教師カウンセラーの役割を担うところに大きな限界があり、そして、そのことが定着しないというのもまた実情です。そのような状況が、第三者である私たち臨床心理士の登場の背景にあるわけです。教師自身、学校自身が「第三者の意見を受け入れていこう。」というムードが生まれてきたということが前提があるわけです。
 第三者とは誰なのか。それは教師とは専門性が異なるものでなければならない。教師と同じではなくて、教師と異なる視点で子どもが見れるということ、どちらかというと、教育の「育」の方を専門とするような役割を担う第三者というわけです。それは誰が担うのが一番いいかということになってまいりますと、教師が教師カウンセラーとして二束の草鞋を履いていた苦労も踏まえながら、心理の専門家としての臨床心理士に方向が向いてきたと思うのです。
 そして、当時では日本ではポピュラーではなかった学校臨床という分野がクローズアップされてきたわけです。アメリカでは盛んになっているようですが、日本ではまだまだポピュラーではありません。日本では、教師も臨床心理士も学校臨床の分野がまだ知られていないという状態でありました。
 しかも、学校現場に入り臨床心理士として活動する私たちは自身、これまでの活動のフィールドがそれぞれ人によって全然違っているという状況なのです。そのような中で、スクールカウンセラーの活動が始まっているということです。ただ、最低限押さえておかなければならない大事なことは、そのようにフィールドも経験も違っていても、「私たちは臨床心理士としての専門性を確保している。」ということです。いろいろ問題が出てくるにしろ、私たち臨床心理士は、認定協会から専門性を認められ、資格を持っている存在なのだということが共通点だと思うのです。
 それは、心理アセスメントが出来るということです。これができなかったら資格を持っているといえないわけです。アセスメントができるはずだし、心理面接ができるはずだし、地域援助におけるコンサルテーション、コーディネーションができるはずだし、そして臨床活動に関するリサーチの能力もある、そういう前提で臨床心理士は認定されているわけです。私たちは、それらをベースにして活動するわけです。いうなれば、学校臨床というのは、私達が学んできて能力として身につけてきたものを応用していく場面ではないかと思うのです。基本的な訓練を受けたそのものが重要な条件として、これからの活動を支えていくものであって、基本的な訓練なくしては学校臨床の中には入っていけない、と考えられます。
 教育そのものを、先ほど申し上げましたように、量的な拡大から質的に変えようとする教育改革が、現在、教育現場でもいろいろ叫ばれています。そのなかのメインが「個を大切にする。」というです。量的拡大から「個を尊重した教育」へと。その個を尊重するということは、私たちが訓練を受けてきた臨床心理士としての専門性と一致するわけです。そのような背景のもとで、私たちは学校の中に入ろうとしているわけです。
 しかし、一方では、まだ根深く、カウンセリングや臨床心理に対する誤解があります。狭義の形でカウンセリングがとらえられ「密室のセラピー」ということで、あの須磨事件の時にはかなりマスコミに言われました。「何の役に立つのか。」とも言われました。そういう中で私たちは何をしてきたかというと、とにかく業績というか、役に立つのだという足跡を残すことに努力してきました。「カウンセリングはそうじゃないんだ。ああじゃないんだ。」と弁解するのではなく、「足跡を残そうとしてきた。」というのが現在に至る過程だと思うわけです。
 ところで、学校には、さきほど申し上げましたように、異質の存在が入ってくるわけですから、それなりに色々な抵抗があって当たり前であるわけです。「先生が受け入れてくれない。」というのは当たり前の話であるわけです。第三者の存在がなくてもこれまでやってこれた、やってこれたけれども、この時代をもう一度みんなで考え直そうという事態で、初めて私たちが学校の中に、ある意味で「侵入」できたわけです。ですから、侵入の仕方によってはトラブルが起こるわけです。そこでは、「スクールカウンセラーは学校現場の中で役に立つ。」という認識、これしか私たちにはなかったわけですが、役に立つという評価がなされることによって、今度はスクールカウンセラーの制度化の問題が浮上してくると思うのです。
 スクールカウンセラーが制度化されるかされないか、これについては「あと2年間ほどのなかで、多様な方向から検討しましょう。」と文部省の方が言われています。ということは、今後に向けての私たちの活動そのものが文部省からも注目されているということです。文部省だけでなく、学校現場から見られているという状況にあるということです。その状況で、私たちは何が出来るのか。そこで、私たちがやってきた実践をもう少し言語化することも必要ではないかと思うわけです。そのために、どのような報告書をまとめていったらいいのか。「これができました。あれができました。」という自画自賛は、受け入れ側が評価してくれるものであって、私たちはそれをどのように報告書としてまとめていくかが大事です。
 例えば、巡回方式という新しい方式がでてきました。巡回方式では、1ヶ月に1回しか児童生徒に会っていないのに、会っている子どもは変化してくる。そして1回しか会っていないけれども、会った時の感想なりアドバイスなりを教師に伝えることによって、教師が「そういうことなんですか。」ということで次の回までの間を繋ぐかたちで、児童生徒が成長してくれる。そのようなことをこれからどのように進めていったらいいのか、も大きな課題になってくると思うのです。
 とにかく私たちはある意味で侵入して行く存在であるということ、そして、仕事の内容は、今あるわけではなく、これから創り出して行くということ、だから、今までの間の成果を、どういう形で表し、どんな仕事が学校臨床の中に必要で有効であるか、ということを私たち自身が意識せずには活動はできないわけです。これができていないから、あれができていないから、というような「何々ができていないから私たちの仕事が出来ない。」という姿勢では、このことは進んでいかないと思うのです。「してくれない族」「くれない族」ではなく、できていなければ本当の私たちの仕事がなりたたない部分は主張しなければいけないと思いますが、「何々がないと、何々ができない。」という「ないない」というかたちでは私たちの活動はなりたたないと思っております。
 そして、その中ではやはり、スクールカウンセラーはこれもでの学校がもつシステムを少し変えるかもしれないが、脅かす存在ではないこと、学校の教師をサポートし、教師の教育活動を有効に効果的になされるように、支援していくものであることを示していく。つまり、私たちスクールカウンセラーは、問題をもった児童生徒の対応と同時に、他方では学校という器にどのような形で援助できるか、ということも今後の大きな方向に繋がって行くものではないかと思っております。

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