T 序論「心の教育の実践に向けて」
             
上地安昭(兵庫教育大学教授 心の教育総合センター所長)

1.次世代の心を育てる意義と課題

 21世紀の幕開けは残すところ1年を切り、刻々と迫ってきている。果たして歴史的な節目の来世紀の2000年代はどのような社会になるのでしょうか。この地球上の人類が、さらに希望と勇気のもてる未来であって欲しいと、切に願わざるをえない。
 言うまでもなく、新しい世紀の未来社会の進展の方向を定める責任を直接担っているのが、現在の子どもたちである。それ故、この子どもたちを教育する立場にある親や教師に代表される大人、ひいては社会全体の責務はきわめて重大である。とくに昨今の子どもの教育全般に関して、決して楽観を許さない状況が多々見受けられる。年毎に増えつづける不登校や凶悪化する青少年犯罪の急増に加え、児童生徒の種々の問題行動の日常化と拡大化、および子ども全体に懸念される道徳意識(社会的モラルを含む)の希薄化等の現状を、まさにわが国の教育の危機の時代と認識する人が決して少なくない。
 このようなわが国における、子どもの教育への危機意識の高まりの下に、ここ10年来毎年のように中央教育審議会へ提出された諮問と同審議会の答申の内容の積み重ねを基盤に、改めて文部大臣から同審議会へ「幼児期からの心の教育の在り方について」の諮問が、平成9年の8月に提出された。この緊急提言に対し、中央教育審議会は、「新しい時代を拓く心を育てるために  次世代を育てる心を失う危機  」として中間報告をまとめ、平成10年4月に公表した。この中間報告の内容の骨子は、「生きる力を身につけ、新しい時代を切り開く積極的かつ人間性豊かな心を育てること」、つまり「生きる力を育む心の教育」に重点をおいていることが理解される。
 なお、同報告の提言の中で、「生きる力」と「人間性豊かな心」について、つぎのような具体的な項目を挙げて説明している。
 (1)「生きる力」とは、
  @ 自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考える力。
  A 正義感や倫理観等の豊かな人間性。
  B 健康や体力。
 (2)「人間性豊かな心」とは、
  @ 美しいものや自然に感動する心などの柔らかな感性
  A 正義感や公正を重んじる心
  B 生命を大切にし、人権を尊重する心などの基本的倫理観
  C 他人を思いやる心や社会貢献の精神
  D 自立心、自己抑制力、責任感
  E 他者との共成や異質なものへの寛容
 今後の子どもの「心の教育」のあり方として、この中間報告では、さらに、家庭、地域、学校において実践すべき具体的内容について指摘している。

2.本県における心の教育の現状

 本県では、平成7年に大震災により多数の人々が「生と死」の危機にさらされ、深い心の傷を負っている。また、その2年後の平成9年には、神戸市須磨区の中学生による人間の尊厳をふみにじる、きわめて凶悪的かつ残虐的な小学生連続殺傷事件が起こっている。本県がここ数年間に遭遇したこれらの二大惨事は、改めて「心の教育」について真剣に考える重大なきっかけとなった。このような悲惨な体験を教訓に、兵庫県教育委員会及び神戸市教育委員会では、ただちに河合隼雄先生を座長とする有識者による「心の教育緊急会議」を設置し、平成9年10月に「心の教育の充実に向けて」と題する貴重な提言をおこなっている。
 この提言は2点に分けて整理され、それぞれの骨子となる項目はつぎに上げる内容で構成されている。

T 現在の子どもたちをより深く理解する視点
 1 子どもは固有の内的世界をもっている。
 2 子どもたちは成長しつつある存在である。
 3 思春期は自己を根底から再構築する時期である。
 4 子どもたちの生き方の根底には人間関係がある。
 5 子どもたちは自分の感性や価値観に合った生き方を身につけていく。

U 心の教育の課題・方向性・提言
 1 生と死を考え、生命の大切さを学ぶ教育の充実について。
 2 家庭における基本的な生活習慣や倫理観などの育成の充実について。
 3 情報化社会の光と影に対応した心の教育の在り方について。
 4 心の教育の充実に向けた教育システムの在り方について

 現在、本県では「心の教育の充実に向けて」の上に述べた提言に従って、「心の教育」の実践への本格的な取り組みが始動したばかりである。全国に先がけて、平成10年4月に新設された県立の「心の教育総合センター」は、この度の提言のU点目の4項目の「心の教育の充実に向けた教育システムの在り方について」の中の「多様な問題に対応する心の教育相談センターの設置」が具体的に提案され実現した経緯がある。同じく、平成10年度に県下の全公立中学校の2年生がはじめて参加した「トライやる・ウィーク」の地域体験学習も、上の同項目の中の「中学校における長期体験学習の導入」の提言がきっかけで、関係者の勇断をもって実行に移された画期的な「心の教育」の実践事業である。また、「心の教育緊急会議」の提言のU点目の1の「生と死を考え、生命の大切さを学ぶ教育の充実について」の推進として、県立教育研修所を中心に「生と死を考える教職員研修プログラム開発委員会」が新設され、小、中、高等学校の教師を対象に「生と死を考える教育」に関する研修が平成10年度の年間を通じて5回実施され、同委員会による「『生と死を考える』教職員研修プログラム」の開発研究も進行中である。さらに、同提言のU点目の3の「情報化社会の光と影に対応した心の教育の在り方について」の関連から、県下の公立高等学校の全校に「心の教育相談室」を設置し、各校にコンピュータを1台導入し、「心の教育総合センター」と直結し、情報ネットワークを使用した「心の教育」相談活動も来年度の平成11年度から試験的に開始される計画である。
 このように、県下では、全国に先駆けて「心の教育」の充実に向けて、その実践的施策が徐々に実行に移される段階にある。今後さらに、「心の教育」の実践プログラムの開発的研究に伴う、教育現場における教育実践の定着化が大いに期待されているところである。

3.「心の教育総合センター」における「心の教育」の本格的始動

 心の教育総合センターでは、「心の教育」の目標を、「生命の尊さを実感し、愛情豊かに他者と共存し、個性的に社会を生き抜く力を育むこと」に設定し、その実践的課題への取り組みを開始した。つまり、「心の教育」とは、@人間の命は、何事にも代え難い、この世で最も尊い存在であり、一度失ったら決して取り返しのきかない唯一のものであるとの実感を育てる、A周囲の人々への思いやりとやさしさ、そして愛情を持って接し、個人的な力の強弱を越えて共に友和的に生きる心を育てる、さらに、B各人の個性を尊重し、それぞれの個性に応じた社会的な生活力を育むことである。 
 本センターでは、「心の教育」の実践的課題として、つぎのような諸問題へ目下取り組んでいる最中である。

 1)平成7年4月に、県立教育研究所内に開設した「ひょうごっ子悩み相談センター」を中心に、電話と面接相談活動による幼児・児童・生徒とその保護者および教師に対する「心の悩み相談」への支援

 2)学校現場へ派遣されている学外のカウンセリングの専門家である「スクールカウンセラー」と「高等学校カウンセラー」および「ひょうごっ子悩み相談センター」に勤務する家庭教育カウンセラーの有効な活用のための調査研究の推進と研修会の開催

 3)学校教育課程における児童生徒に対する「心の教育」の授業実践プログラムの開発的研究と授業実践の推進

 4)「心の教育」推進事業としての「トライやる・ウィーク」の教育的意義に関する調査研究を主体とした総合的研究の推進

 5)学校教師を対象とした学校カウンセリング研修を中軸とした「心の教育」に関する教師研修プログラムの開発的研究と研修の実施

 6)「生と死を考える」教職員研修プログラムの開発的研究と教育実践への積極的関与

 7)県立教育研修所内の図書館への「心の教育メディアライブラリー」コーナーの特設とその充実

 「心の教育総合センター」が開設初年度の平成10年度に着手した主な事業の内容は上に述べたとおりである。なお、本センターでは、平成11年度の新たな事業として、つぎのような課題への実践的取り組みを計画している。

 8)全県下の県立高等学校の「心の教育相談室」との情報ネットワークによる、各高等学校に対する教育相談活動への支援計画の推進

 9)「心の教育危機対応マニュアル作成委員会」の設置と同マニュアルの作成業務

 10)小・中・高等学校の教育現場における「心の教育」の実践全般に関する実態調査研究の推進

4.学校教育の基本目標としての「心の教育」の定着化に向けて

 21世紀に向けてのわが国の学校教育の目標として、従来の教科学習による知識と技能の基礎・基本の理解とともに、生きる力と豊かな心を育むことが重要な教育課題であることは言うまでもない。とくに、後者の「心の教育」は、未来世紀の人類の存続にもかかわる次世代への人類愛に根ざした人類共存の精神を育てる意味で、きわめて重要なテーマである。
 そこで、現実的課題として、学校教育において「心の教育」を、次世代を担う子どもたちへどのような方法で、具体的にすすめていけばよいのか。「心の教育」に向けての教育的実践の課題とその方策について考えてみたい。

 1)学校教育の基本的目標の明確化とその認識の深化

 今一度学校教育の目標について、すべての国民が真剣に問う必要があると考える。つまり、目の前の子どもたちがどのような大人に育つことを期待するのかについてである。これまでのように、知育偏重の教育の下で養成された知的能力に優れたエリートの輩出こそが、学校教育の目標であってよいのであろうか。昨今の不登校やいじめおよび非行等の学校不適応児童生徒の急増の背景には、従来の知育重視の学校教育にその根源があるとの専門家の指摘もあながち否定できない。つまり、人間性の発達を重視する学校教育への関心と努力が十分ではなかった、との教示である。
 そこで、改めてこれからの学校教育の基本目標を、「心豊かな人間性を育むこと」として、明確に位置づけ、「心の教育」の重要性を強く認識することから再出発する必要がある。

 2)「心の教育」は主体的学習が基本。

 今日のわが国の教育改革では、社会の急激な変化に伴い、主体的に対応できる能力を身につけさせるために、自ら学ぶ意欲と思考力、判断力、問題解決力、さらには自己教育力、生きる力の育成を強調している。つまり、新学力観に基づいた、自ら考え、行動を選択し、実行し、責任を持つことのできる主体性を育むことを学校教育の重点目標と定めている。
 言うまでもなく、人間の心はその本人個人のものであって、いかに優れた親や教師であっても子どもの心の主にはなれない。周囲の大人は、あくまでも子どもの心を育む支援者であって、子どもの心を支配する代行者であってはならないと言うことである。この意味から、「心の教育」は、子どもの主体的な行動を形成することがその基本でなければならない。

 3)体験学習による「心の教育」の実践

 人間の心は、行動を伴うことによって、その機能が十分に発揮される。知的学習のみに頼った認知レベルの「心の教育」によって、人間性豊かな行動の育成を期待するには限度があると考えるのが妥当であろう。認知の変容は行動の変容のための前提条件にはなりうるが、すべてではないことは自明の理である。つまり、「理解はできるけど、思うように行動へ移せない」のが、人間の心の複雑な部分と言えよう。
 その点で、体験を通して育った心は、行動を伴った心として、知・徳・体の調和のとれた全人的人間への成長を促進する中軸の機能を果たすことが期待される。自然体験活動や社会体験活動および勤労・福祉体験活動等は、子どもたちの生きる力を育むこれからの「心の教育」の重要な実践課題である。同時に、教室での授業においても体験学習を重視した「心の教育」の実践のための工夫が望まれる。最近学校教育現場への導入が盛んな構成的グループエンカウンターの「エクササイズ」や「ソーシャルスキル・トレーニング」、「ストレス・マネジメント」等の体験的学習課題を「心の教育」の授業実践へ生かす方法もさらに積極的に推進することが期待される。

 4)子どもの心理的発達に応じた「心の教育」の実践プログラムの開発

 人間の心の成長は、それぞれの発達の段階に応じて、重点的な心の発達課題があると見るのが専門家の一致した意見である。つまり、乳児期、幼児期、児童期、思春期、青年期とそれぞれの成長期に獲得すべき心の発達課題をすべての人間は担っているとの立場である。この視点から、まずは小学校と中学校および高等学校それぞれにおける児童生徒の心理的発達課題を達成するための「心の教育」の実践プログラムの開発が望まれる。
 例えば小学校の児童期の心理的発達課題である「勤勉性」と「道徳性」を育てる授業実践プログラムの開発が必要である。また、中学校においては、思春期の心理的発達課題である「性的成熟の受容」と「友人関係への適応」および「自己意識の芽生え」等を目標とした「心の教育」の実践プログラムの開発が求められる。さらに、高等学校では「自立心と自分らしさの確立」と「社会生活への適応」等の心理的発達課題を体験的に学習するための授業実践プログラムの開発が同様に大事である。

5.まとめにかえて

 学校教育におけるいわゆる「心の教育」は始動したばかりで、本格的な実践はいよいよこれからである。諸々の事情があって、本県は全国に先駆けて「心の教育」の実践に向けて、すでに活動を開始している。ただし、「心の教育」とは、見方によれば「人間教育」そのものを意味すると理解できないこともない。それだけに、「教育の本質」に迫る教育の実態が「心の教育」の内容と言えるのかも知れない。それ故、「心の教育」への実践的取り組みは容易でないばかりでなく、永続的な教育課題であることも忘れてはならないと考える。