X「心の教育」と「心の授業」
          冨永良喜(兵庫教育大学教授 心の教育総合センター主任研究員)

不登校児童生徒の急増、学級崩壊、凶悪な少年犯罪に見られるように、今、子どもたちは、危機に直面している。神戸少年事件を受けて、「心の教育緊急会議」が設置され、さまざまな具体的な提言がなされた。それを受けてはじまった中学生長期体験学習「トライやるウィーク」はさまざまな効果をもたらしつつある。しかし、提言では盛り込まれなかったが、もうひとつ見直したい体験として、日常の学校生活がある。道徳や学活で、人間関係や自己発見やストレスマネジメントを実践する「心の授業」を展開したい。心の授業や「トライやるウィーク」の理論的モデルとして、心のモデルを提唱し、心の教育のあり方を述べる。また、心の授業のひとつであるストレスマネジメント教育の導入例を紹介する。

1.「心の教育」の背景と施策
 (1) 時代背景
 神戸少年事件では、加害少年が注意欠陥多動性障害(Attention Deficit Hyperactivity Disorder:ADHD 注意集中困難多動性障害と訳した方が適切と思われる)と過去に診断されたとマスコミ報道され、精神鑑定により行為障害(他者の基本的人権や社会的ルールを無視する行動様式が反復または持続している状態)と診断されたことから、学校現場は注意欠陥多動性障害や行為障害の兆候を示す子どもへの対応に不安を抱えている。あるマスコミは「加害少年の気持ちがわかりますか」と中学生に質問し、4割近くが「わかる」と答えたと報道した。その後、ナイフによる教師刺殺事件が起こると、ナイフによる少年事件が続発し、少年の心の闇が、一気に、表面化した。
 ところで、多動や興奮しやすく衝動的に行動するといった子どもの問題行動は、生来の脳機能障害に起因する注意欠陥多動性障害によっても、また、養育に伴う心理的・身体的虐待を受けている可能性が高いと言われている行為障害によっても起こりうる。現在の学校現場においては、互いに異なる両者への対応について大きな混乱が見られ、ともすればその対応を誤り、症状を重度化させてしまう場合もある。いま学校現場は、問題行動をもつ子どもの的確な教育診断や、子どもへの具体的な教育方法を緊急に求めている。
 殴る蹴る火傷をさせるなどの身体的虐待はもちろんのこと、「あなたはどこの子?」「お前はどうしてそんなにぐずでのろまなのか」「あなた精神的におかしいんじゃない」といったメッセージを繰り返し送られることも、子どもの心に深い傷を残す。さらに、そういったメッセージをにこやかな顔をしながら送られるといった二重拘束が、子どもの心を混乱させ、状態をさらに悪くさせている。心の傷は、子どもの成長段階でさまざまな形であらわれる。拒食、過食、嘔吐といった摂食障害、手を何度も洗わないと気が済まないといった強迫行動、身体がピクピクと不随意に動くチック、手首を傷つけるリストカットなどの自傷行為、そして、社会的ルールを無視する非行など、さまざまな行動としてあらわれ、心身の成長に深刻な影響を与え、時には命に関わる最悪な事態を引き起こしている。これら心の傷の問題は子どもから成人まで、教育現場はもとより社会的にも大きな問題となっている。
 さらに、ファミコンなど疑似体験遊びの氾濫や受験社会におけるストレスは、子どもの自然体験や生活体験を制限し、さまざまな問題行動や学級崩壊の一因になっている。このような社会環境では、問題行動としてあらわれる子どものみへの結果対応型の取り組みでは限界があり、諸外国が実践しているような予防的な取り組みが求められている。その予防的な取り組みの中心となるのが、「心の授業」である。

   表1   心の教育の時代背景                  
    現象                         推論
1.不登校の増加                   知の歪みと感の欠如
2.震災での心のケアの認識            おとな
3.少年犯罪の凶悪化                自由には責任が伴うとの認識の欠如
.神戸少年事件 
  a.注意欠陥多動障害と診断されていた?
  b.行為障害と診断された           子ども
  c.家庭教育(養育)の疑問           受験ストレス
                            ファミコンなどの疑似体験遊び
                            身体的体験の欠如

 「心の教育」が叫ばれるようになった時代背景を、その現象と推論に分けて表1に整理した。震災やオウムサリン事件で、「心のケア」が叫ばれたのが、1995年であった。そして、1997年に起きた神戸少年事件こそ、「心の教育」の原点といえる。あの事件には、子どもたちが、21世紀を生き抜くための多くの警告が込められている。私は、スクールカウンセラーとして須磨区の小学校(加害被害には直接関係しなかったが)に緊急配置され、事件を身近に体験した。ご遺族の悲しみは癒されることはないだろうが、その悲しみを真摯に受けとめ、次世代に生きる子どもたちの健全な育みを、家庭、学校、地域で、全力をあげて取り組むことこそ、われわれの使命であろう。

 (2)専門家会議「心の教育緊急会議」
1997年8月、神戸少年事件を契機に、兵庫県教育委員会と神戸市教育委員会は共催で、「心の教育緊急会議」を設置した。座長は、臨床心理学の第一人者である河合隼雄、委員は、家族療法研究の斉藤学、生と死を考える会代表の高木慶子、社会学の宮台真司などで構成された。第1回会議は、1997年8月2日に、座長が須磨に緊急配置されたスクールカウンセラーから意見を聞くという形で行われた。私もその会議に参加した。会議の内容は、緊急配置で孤軍奮闘・疲労困憊していたスクールカウンセラーに対する河合隼雄氏のスーパービジョンであった。その後、あるマスコミが、会議が非公開だったことに対して批判的なコメントを掲載した。カウンセラーの相談活動が公開されたら、誰も相談に行くものはいないと、担当記者にカウンセリングの理解を求めた。 委員による会議が、9月1日、10月6日と開かれ、「心の教育の充実に向けて」という小冊子が発刊された。冊子は、「子どもの理解」と「心の教育の提言」の2部によって構成された。Uの「課題・方向性・提言」では、かなり具体的な教育政策が提言された。
 教育システムのあり方では、受験緩和を目指す高校教育改革、中学生長期体験学習の導入、心の教育総合センターの設置などが提言された。心の教育総合センターの設置提言を受けて、平成10年4月に、「心の教育総合センター」が新設された。兵庫教育大学心理臨床分野の上地安昭教授をセンター長に、私が主任研究員として兼務することとなった。結果対応型の教育相談だけでなく、全ての児童生徒の心の教育を研究する機関として発足した。
兵庫県教育研修所では、生と死を考える教職員研修プログラム開発委員会も設置され、命の教育のあり方の授業が模索されている。高木慶子は、いのちの大事さにポイントを置く4つの予防として、@病気の予防 Aいじめの予防 B事故の予防 C自殺の予防 をあげている。そして、「どんな時にも勇気と希望を与えるのが生と死の教育である」と語っている。
 提言は、体験を重視した具体的なものであった。家庭や地域の教育力は、重要であり、「トライやる・ウィーク」のような試みは画期的ではある(上地、1998)。しかし、もっとも充実が求められているのは、日々の授業での体験である。「中央教育審議会中間報告」では、道徳教育の改革が盛り込まれた。ストレス社会を生き抜くための子ども自身の責任の取り方、ライフスキルやソーシャルスキル、ストレスマネジメトがその中核になるだろう。そこで、心の教育総合センターに、日々の「心の授業」を研究開発するために、小学校・中学校・高等学校から各3名ずつ計9名の教員で構成する心の教育実践授業開発委員会を設置した。心の授業は、道徳や学活の時間に実施され、ストレスマネジメント教育、人間関係訓練、自己理解の3つによって構成されている。
 わが国は、戦後、「個人の自由」が声高に叫ばれ、経済の発展を遂げてきた。しかし、「自由には責任が伴う」ということを、社会通念として育ててこなかったのではないだろうか。だから、他者に迷惑がかかる自由は許されないという常識が育ってない。知の歪みである。一方、子どもの世界は、ファミコンなどの疑似体験遊びが氾濫し、他者にふれ、他者の気持ちを推し量るという体験が乏しくなっている。感の欠如である。
 心の授業は、知の歪みと感の欠如という社会構造へ一石を投じる。「人が迷惑になるストレス解消はやめよう」「困難なことに出合った時、自分で責任をもってそれを乗り越えてゆく体験の素晴らしさを実感しよう」「あなたは社会で活躍できる潜在的な力をもっている」「身体の奥底から感じる、心が動く感動体験を大切にしよう」などのメッセージが含まれている。心の授業は、自分の責任の取り方を体験的に学ぶ教育である。

2.失われた体験と心の教育
 子どもたちに失われている体験と心の教育を考える視点として、「心のモデル」を示して説明したい。「ひと」は、物質的生物的存在である「身体」と、理性や知識などの「精神」と、喜怒哀楽でありエネルギーの源である「感情」によって構成されている。広辞苑によれば、「『精神』は、@心。たましい。A知性的・理性的な、能動的・目的意識的な心の働き。根気。気力。B物事の根本的な意義。理念。」、「『感情』は、@喜怒哀楽や好悪など、物事に感じて起こる気持ち」、「『からだ』は@頭から足までをまとめていう語。身体。」と記されている。

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 「感情」は精神に位置するというより、物理的存在である「身体」の中に埋もれている。心身症の特徴のひとつはアレキシシミアである(Sifneos,1973)。これは、自分の感情をうまく表現できないことを意味する。また、うまく表現できないということすら気づいていない。かといって、物事に対して感じられないということではない。表現の仕方としては、事実をくどくどと述べ、困っていることを訴えるが、自分の感情に向き合い、感情を広げることができない。「身体に閉じこめられた感情」という表現がよく似合う。そのため、その感情のエネルギーだけが、強烈に威力を発揮し、行き場を失い、身体を傷つける。それが、胃潰瘍、過敏性大腸炎、あるタイプの喘息、夜尿、アトピー性皮膚炎など、さまざまな疾患であり、それを総称する心身症としてあらわれる。
 「身体」「精神」「感情」の舵取り役であり、核となるのが「心」である。「心」は「主体」であり、「身体」「精神」「感情」の持ち主である。ちなみに広辞苑によれば、「『心』は、1人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。@知識・感情・意志の総体。「からだ」に対する。A思慮。おもわく。2@おもむき。A事情。」と記されている。ここで、「心」は、成瀬(1995)のいう「主体」と同義である。心とは、身体、精神、感情の持ち主であり、それらのもとになるものである。だから、心の教育とは、ひとの主体のあり方を常に尋ね、主体の望ましい活動様式を探し求める過程といえる。心の教育緊急会議は、「心の教育は、教よりも育に重点をおいた教育」と述べている。しかし、今の子どもたちには、身体をくぐらせる体験、相手の身になる体験が失われているために、結果として、それらの体験の「育」に重点をおくのであって、「教」と「育」を対峙して、「育」を重点におくのが「心の教育」とするのは、不充分な定義といえる。教科教育の過程で、子どもは自己効力感や自己達成感を育てているのか、育てるためには、当然、望ましい「教」の活動が、教師に用意されなければならない。だから、教と育を対峙的にとらえるのではなく、子どもたちの身体、精神、感情の持ち主である主体、すなわち、心の望ましいあり方を探り培うことが、心の教育といえる。
 ひとは、自然や人工物といった「環境」に対峙し、また、地球という「大地」に存在している。ここで「心」からのベクトルが2つある。身体に向かい、身体を通るベクトルが「動作」であり、身体をくぐらないのが「イメージ」である。またそのベクトルによって、ひとの中に生じる感じが、体験である。ちなみに、成瀬(1995)は「体験とは、ひとが生きて生活をしているとき、その場で直かに身をもって感じているもの、すなわちこころの内に起こっている事象のうち、気づかれ、感じられて、まさにただいま感じられているもの」と定義している。例えば、イメージ体験とは、身体からの実感がありありと感じられるイメージをいう。あることを思い浮かべたとき、涙がながれてとまらないというとき、それはイメージ体験である。

(1)自己尊重感
「心」から「心」に向かうベクトルが@である。「自分は価値がある人間だ」という自信は「自己尊重感」、あるいは自尊感情(Self-esteem)と呼ばれている。この感じがあってはじめて、さまざまなよい力を発揮することができる。教育の目的はこの自尊感情を育てることと言い換えることができる。一方、「あなたはなにもできないだめな子ね」と絶えず周りの身近な人からメッセージを送られたら、どんな子どもも自分は価値のある人間だと思えない。それが「うつ」の世界である。しかも、このメッセージが悪意なく送られるところに、今の子どもたちの「うつ」がある。「さっきまではあんなにいい子だったのに」は、「あなたはいま悪い子だ」というメッセージであり、「あなたが漫画家になれるはずがない」は子どもの将来を思い計るがための言葉であるが、将来を否定している。親は子どもを傷つけている意図性がなく、しかし、子どもはうつの世界に追いやられる。もっと、正確には、マイナスのメッセージを送られること自体が問題なのではない。そのメッセージによって、悲しみ怒っている子どもの気持ちを親がわかろうとしたり、その気持ちを宥めようとすることが、欠けていることが問題なのである。
 だから自尊感情の傷つきの発見と予防の手だてが、ひとつの対策である。例えば、「親から子への愛のメッセージ」運動がある。親がひごろ感じている子どもへの愛の気持ちを、手紙という手段によって言葉にするのである。いつもは、子どものためと思い、「はやく宿題しなさい、はやく...」ということにより、子どもの気持ちを推し量れなくなっている。それを手紙という一歩距離をおいたコミュニケーション手段により、本音を素直に伝えるのである。また、卒業間近になって、寄せ書きによい学校の思い出を書き記すのも、自尊感情を育てるし、構成的グループエンカウンターの他者をほめるワークも、この自尊感情を高めることが意図されている。ストレスマネジメントでは「今日は勉強に集中することができる。友だちと仲良く遊ぶことができる」といったメッセージがこの自尊感情を高める。

(2)自体慈愛感と自体操作感
「心」から「からだ」に向かうベクトルがAであり、イメージのベクトルが「自体慈愛感」で、動作のベクトルが「自体操作感」である。自体慈愛感は、自分の身体をいたわる力、なだめる力である。リストカットにみられる自傷行為や、思春期やせ症・過食症は、自分の身体を意識的無意識的傷つけており、この自体慈愛感が育ってない結果である。この感じの形成は、幼児が転び、膝をすりむいた時、親がどのようにかかわるかというエピソードに象徴される。親が傷の痛みをわかろうとしないか、「そんなことでへこたれないで頑張りなさい」とメッセージを送った結果である。この回復にとって、カウンセリングなど言葉のレベルだけでは解決が難しい。摂食障害の治療が臨床医や臨床心理士を悩ますのは、親の根元的な共感性のなさに由来する。しかし、回復の手だてはある。多くの摂食障害の専門病院は、親子入院を治療の原則にしている。親の過去の誤りを見つめるより、いまのかかわりを変えていくアプローチが効を奏す。親は愛がないのではない。愛があるがそのエネルギーが子どもを傷つけているのである。教師は、この種の病気が、それほど簡単なことではないとの認識と、そのような医療機関を知っておくだけで、子どもの命が救われることがある。

 (3)共感と共動作感−人間関係
 「心」から「他者」に向かうベクトルがBで、イメージのベクトルが「共感」であり、動作のベクトルが「共動作感」である。ひとはひとの中にいるから存在しているといわれるように、他者とのかかわりが「生きる」ことには不可欠である。「あなたの気持ちはよくわかる」といった感覚が「共感」である。実際のところ、他者の気持ちが完全にわかるということはありえない。相手の身に自分の「心」を置こうとし、動作して感じることが「共動作感」であり、その動作によって生ずる体験が「共動作体験」である。脳性マヒ児の訓練をするとき、その人の姿勢や動作を真似てみる。脳性マヒ児と同じ動作体験はできないが、「精神」のレベルでのわかり方よりも、はるかに援助する手だてが浮かびやすい。また、子どもの遊びで言えば、「鬼ごっこ」や「どろ警」などは「相手の身になる力」を培うものである。
 この共感や共動作感が失われると、人間に対する不信が生まれる。不登校現象を考えれば、不信によって生まれる不登校と、主体性を削がれて生まれる不登校に大別される。主体性を削がれた結果の不登校とは、親の過保護、肩代わりによって、環境へ挑戦する力が未熟となり、安全な安心な家に回避してしまう子どもである。ここでは、不信によって生まれた不登校を考えてみたい。友だちからの「○○なんか学校に来るな」などというマイナスのメッセージは、ひとを信じる力を弱める。子どもは人間の不信から学校に行けなくなる。教師は、子どもの気持ちを尊重し、「行きたくないならいいよ」というなら、子どもは見捨てられた気持ちになる。かといって、無理に、学校に行かせようとするとますます心が閉じてしまう。よい教師は、家庭訪問で、子どもに会えるようなら、子どもの好きな遊びを一緒にする。それは、共動作感をうむ。子どもの不信に応じて、共動作感の乏しい遊びから豊かな遊びが選択される。不信が大きいほど共動作感の乏しい遊びでないと子どもは心を開かない。例えば、ファミコンは共動作感が乏しい遊びであり、キャッチボールは共動作感が豊かな遊びである。だから、キャッチボールに象徴されるように、やりとりができるようになれば、人との不信は回復するといえる。
 ここで、子どもの遊びとして一世風靡しているファミコンゲームを考えたい。ファミコンは、どのようなキャラクターをどのように攻略すればいいかといった知識の共有はできても、身体をくぐる共動作感の育成はむつかしい。ファミコンが子どもに好まれるのは、刹那的な達成感を時々刻々と強化されるからであろう。ファミコンの世界では、どんなわずかな努力も報われる。そして、敵を倒したり、自分の身代わりの主人公が、試練に耐えて長旅を終えることができる。現実世界では、なしえない成就感や達成感がえられる。しかし、それは子どもが生きている学校や遊びの世界という現実ではない。刹那的な遊びもひとにとっては必要かもしれないが、それが生活の全体となると、ひとの力が発揮されない。「子どもが好きなことを親はさせる」ということが、子どもを尊重しているというのは、非指示的療法の安易な解釈だ。1日中ファミコンを自由にさせている親は、子どもの心を削いでいる。親は、子どもにとって必要な体験を考え、そういった遊びを整える必要がある。ファミコンしか夢中になれない子どもは、学校で自分を生き生きと生きてないというサインとしてとらえる方がよい。だから、ファミコンの時間を子どもがコントロールできるように、キッチンタイマーを子どもがセットし、ベルがなったら、自分で見切りをつけて、つぎの課題や遊びにとりかかるといった力を育てることもストレスマネジメントである。ファミコン業界の企業も営利だけを考えれば、人類は破滅を選択するといった人間観が必要だ。
 子どもの世界で「共動作感」が育つ場が失われている。だから、動作法によるペア・リラクセイションは、この「共動作感」の育成のひとつの有効な方法となるだろう。それは、刹那的ではない、安心な感じと爽快な感じを体験できるように、援助者が援助を工夫するからである。ちょっとした言葉かけや手の感触で、こんなにもほっとした感じになれるという体験がそこにある。

(4)自己効力感と自己努力感
 ひとは環境に対して働きかける存在である。ひとが環境に働きかけるベクトルがCであり、イメージのベクトルが「自己効力感」であり、動作のベクトルが「自己努力感」である。動作のベクトルには、課題を達成しおえたという「自己達成感」も含まれる。例えば、ある昆虫の生態について調べる宿題がでたとしよう。その宿題をやりとげられるかどうかの自信が「自己効力感」(Self-efficacy)である。それは、「心」が「環境」の中の課題にたいして、達成できるかどうかの自信である。そして、昆虫採集に行き、それを図書館の図鑑で調べる。その過程は、努力して、頑張っている感じがある。この頑張っている感じは、ことに重要である。学校教育では、どれくらい昆虫を採取したか、調べたかといった具合に「結果」が強調されるが、最も大切なことは、この頑張る感じである自己努力感である。

(5)自己存在感と安心感
 最後に、もっとも基本的な感じがある。それは、自分は地球上にかけがいのない一個のひととして存在しているという「自己存在感」と、世界は自分を攻撃しないという「安心感」である。自己存在感は、地球という重力への動作として感じられる。地震は安定した基盤を数秒で破壊し、多くの喪失と悲しみを生んだ。復興期に、動作法による「たつ」という課題が、有効だった(冨永、1997)のは、地球を確かめ、味わうことで、自己存在感を確かめていたのかもしれない。また、自分が自分として存在できるのは、環境や他者から脅かされないという安心感があるためである。災害、虐待、体罰、ののしり、否定、無理強い、それらによってまず奪われるのは、安心感である。ハーマン(Herman,1992)は、傷ついた心の回復に一番に必要な体験は、安心感であると述べている。安心感が奪われると、人は常に、身構えて、戦う姿勢をとり続ける。戦う姿勢をとり続けないと、攻撃され破壊されるからである。目を閉じれない子は、安心感が奪われている。背後に人が立つと不安になり、はしゃいだり、いやがったりする子も安心感が奪われている。戦う姿勢をとり続ける子は、戦うための武器を研き、いかにすれば闘いに勝てるかということを考え続ける。神戸少年事件は、そういった子どもの究極の姿なのかもしれない。それほど、安心感はひとの基本的な感じである。安心感がなくては、思いやりや、自分へのいたわりも生まれない。そういった安心感を奪われた子に、無理に、課題を強制することは、ますます安心感を奪うことになる。この安心感の回復こそ、ストレスマネジメント教育のもっとも基本的なねらいであることを忘れてはならない。

(6)失われた体験を回復するために
 いまの子どもたちは、体験を失っている。そのために、兵庫県では、「トライやるウイーク」が実施され、効果をあげた。そういった体験は、考えてみれば、昔は、大工好きな隣家のおじさんから、鋸のひき方を教えてもらったという具合に、地域が自然に行っていた。最近、西アフリカの国セネガルの小学校の教科書(盛と盛、1998)を読む機会があった。地理や風俗は、子どもからの手紙という形式で紹介され、そこにはまさに「生活」が描かれている。狡猾な商人、物売りなどの人間の悪も描かれている。「現実は甘くないが、なるべく賢く良く生きなさいと語っているようだ」と訳者は述べている。「精神」の向上を目指した西欧諸国の文化のよい面は残しつつも、身体を通す体験を今、ふりかえる時代が来ている。そういった体験を、公的機関が組織することが必要になった時代である。しかし、いまを悲観することはない。数十年前の人の差別意識を考えると、はるかに人類は進歩している。人類が育ててき 財産を大切にしつつ、いま、変化する時代がきている。
 いままでの教育と心の教育の新しい試みを図2に示した。新しく はじめられた試みを下線で示している。
 心の教育は、精神、感情、身体の持ち主である主体、すなわち「心」の望ましい活動様式を培うとさきに定義した。だから、教科教育は、成績といった結果だけを求めるのではなく、自己効力感をいかに培うかが問われる。
 教科教育に取り組むためのもととなる安心感や共動作感を培うために、心の授業が位置づけられる。さらに、社会や自然の中に自己を位置づけるために、さまざまな社会体験や自然体験が求められる。

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 教科教育では、点数に代表されるように成績をつけるが、心の授業や自然・社会体験では成績をつけてはならない。成績は、本来は、自分を切磋琢磨するためであろうが、現実には、高校や大学進学のための資料となっている。すなわち、未来のために今が生かされることとなり、「いまここで」の体験が失われやすくなっている。すなわち、本来、学問を身につけるにつれ、遊びと同じように、楽しく充実感を味わえるはずの体験の仕方が、狂わされている。
 心の授業でも、いまの気持ちなどのアンケートを行い、得点化やパターン化をする。しかし、その得点は、「いまここで」の心のかたち化であり、競争原理にもちいてはならない。だから、心の授業で行われたアンケート結果が内申書に反映されるようなことがあっては決してならない。そのようなことをすれば、子どもたちのいまここでの心をますます閉じさせてしまうからである。受験産業に、「気持ちのアンケートの模範解答」なるものが、登場しないような、企業の倫理を求めたい。そのためにも、学校教育の中であつかうアンケートは、意識的なこと、だれもが望ましい回答がわかることに限定し、バウムテストなどの投影法は用いない方がいい。また、自分をみつめられるように、心の天気図として、子どもにフィードバックするといった工夫も必要であろう。

3.心の教育と心の授業
 海外では、いじめや非行などの問題行動は思春期に特有に生起するものとして、それに対して予防的な人間関係訓練やストレス対処が授業に積極的に取り入れられており、ライフスキルプログラム、ソーシャルスキルプログラムやストレスマネジメント教育などと呼ばれている。わが国では、総称して「心の授業」と呼んではどうだろう。「教育相談」が悩みや問題行動が生じた時にその解決を支援する結果対応型の取り組みであるのに対して、「心の授業」はクラス集団を対象とし問題行動を未然に防ぎ内面の成長を促進する予防的開発的な体験授業といえる。「心の授業」は「心の闇」や「心の影」を探り出したり分析することはしない。臨床心理学というと、無意識の世界を描き出す学問を連想しやすい。確かに、実のなる木を描くバウムテストやインクのしみが何に見えるかというロールシャッハテストなどは、恐いほど「心の闇」を映し出す。しかし、教師がこういった技法を用いることは危険である。教師の視点はあくまで子どもの「心の光」である。子どもがどんなに深い悲しみを抱えていて心が荒んでいても、ひとすじの「心の光」がある。「心の授業」は子どもたちの「心の光」を膨らます体験的な援助法である。そのため、「心の光」を膨らます臨床心理学の方法が用いられる(冨永,1998)。
 「心の授業」の内容は、大きく3つに分けられる。「ストレスマネジメント教育」、「人間関係体験」、「自己発見・自己開発」である。ストレスマネジメント教育は、ストレスを効果的に自己コントロールする教育的方法である(竹中,1998:山中・冨永,1999:冨永・山中,1999)。自分や他者の「安心感・安全感」を培う教育ともいえる。安心感がなければ勉強にもスポーツにも自分を発揮することができない。このストレスマネジメント教育によって、落ち着いた雰囲気がクラスに広がった時、人間関係や自己理解の体験授業が効果的になる。人間関係体験には、いじめ防止教育や自己主張訓練が含まれる。自己発見・自己開発は、理想の自分と今の自分を見つめる方法や、解決イメージを活用した方法などがある。

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 「心の授業」でストレスマネジメント教育を実践しておくと、問題が起こったとき、個への対応が迅速にできる。ストレスマネジメント教育は、集団で行いながら個人に働きかけている方法である。構成的グループ・エンカウンター(國分、1992)が、よい人間関係の形成を第一のねらいにしているのに対して、ストレスマネジメント教育は個の確立を第一のねらいにしている。

4.心の授業としてのストレスマネジメント教育
1) ストレスマネジメント教育のテーマ設定と導入の問題
 「心の授業」でストレスマネジメント教育を実践する時、テーマ設定と導入の仕方が重要である。いじめがひどいから、いじめのテーマだけを行うというのは、短絡的である。また、年齢によっても導入の仕方が異なる。

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ストレッサーには、事前に予期できる試験や試合などのプレッシャー、地震や水害などの自然災害、虐待や惨烈ないじめなどの人為災害がある。人の故意性が強いほど、憎しみを生み、自然の力が強いほど、無力感を生む。

表4 対象とテーマ設定
   テーマ          対象                教材
試合のプレッシャー   小学校中学年〜      ヒーローのビデオや談話
人間関係         小学校中学年〜     心が傷つくことばと対処
受験のストレス     中学校中学年〜      記憶の仕組み
いじめ           小学校中学年〜      物語
喪失・危機        高等学校〜          震災の記録
ファンタジー       就学前児〜          物語によるイメージ

 子どもの興味関心を惹きつけ、かつ安全なテーマは、プレッシャーである。はじめてストレスマネジメント教育を導入するとき、プレッシャーをテーマにするとよい。動作法によるストレスマネジメント教育で、しっかりと援助ができるようになれば、クラスが落ち着いて、いじめも減少する。また、人間関係をテーマにし、人の言葉が心の栄養になることも、人を傷つけるナイフになることも伝えることも大切だ。子ども同士の傷つけがいじめであり、いじめとは知らずに傷つけていることもあるので、いじめも、必ずやっておきたいテーマである。また、人生で出合う喪失・危機、PTSDについては、自我がかなり安定しはじめる高等学校では、実践したいテーマである。それは、まさに、生と死の教育でもある。また、幼稚園・保育園児には、いずれのテーマもファンタジーに脚色して、緊張−弛緩の体験、不快−快の体験が実践できる。この表に示している対象の年齢は、便宜的であり、教材の工夫によっては、いかなるテーマであろうと、実践できるであろう。
 ストレスマネジメントへの動機づけをたかめるための「目標の設定」、「導入の教材」、「実施時間」について述べる。

(1)目標設定
効果を生徒自身、実感できるためには、身近な目標があるといい。例えば、校内合唱コンクール、運動会、中間・期末試験など学校行事に照準を合わせて、ストレスマネジメントを導入するとよい。合唱コンクールなどは、練習の時間があるので、本番に備えて、ちょっとストレスマネジメントのワークを入れる。発表会で舞台にあがる直前に、クラスで肩の上げ下げを行って気持ちを整える。結果として、優勝や入賞という成果が伴えば、さらにストレスマネジメントへの動機づけが高まる。実際、すでに実践しているスクールカウンセラーや教師の報告を聞くと、驚くほどよい成績をあげている例が次々に報告されている。

(2)導入例1 プレッシャー
スポーツの試合、発表会、学業試験などプレッシャーをテーマにするとよい。

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@みんなでプレッシャー体験を語り合う
 「あと3週間で、○○スポーツ大会(合唱コンクール)がありますね。今日は、『気持ちを整える』という授業をします。みんな、体育会とか試験とか、プレッシャーがかかることあるよね。みんなは、どうかな、プレッシャーがかかったとき、心と体はどんなふうになるのかな?中学生は討論になれてないので、まず、自分だけで考えて、小さな紙に書 いてもらうとよい。また、ふざける子 が多いクラスも、その子たちの意見が 大勢を占めないように、まず書いてもらうと良い。

Aプレッシャーの克服法を語り合う
次に、4名ぐらいのグループになり、3〜5分話し合ってもらう。
心臓がドキドキする、前の日に眠れない、など心と体の緊張のあり方の具体 的な発言を求めてゆく。
「みんなは、そのときどんな工夫をしていますか。小グループで討議してもらう」。 マンガを読むとか、お風呂にゆっくり入るとか、それぞれの対処を黒板に整理する。

Bオリンピック選手の談話を紹介する
  a.長野オリンピック金メダリスト清水宏保選手の談話(朝日新聞、1998.2.23)
 この談話は、プレッシャーによるストレス反応、ストレス対処としての成功のイメージとリラクセイション、そして、ソーシャルサポートという4つが見事に描かれている。中学生ぐらいだと、新聞の切り抜きを配布してもいいし、教師がポイントだけ朗読してもいい。また、清水選手のスケート滑走姿のグラビアを用意しておくのもいい。
 「清水選手は、金メダルをとった後こんなことを言っています。
  『ただ、みなさんの期待と自分の弱さが重なって、五百メートルのレース直前の一週間は、悩み抜きました。「だれか、助けてくれ」。叫びだしたい思いでした。』
あの金メダルをとった選手でさえ、逃げだしたいほどの気持ちになっていたんですね。」
「じゃ、清水選手は、試合にどんな気持ちで臨んだのでしょう。
  『自分の中で「二人の清水」が闘い(逃げたい自分と逃げない自分のふたりの自分ですね)、レース前夜、ふっと気持ちが軽くなった。遠足の前日の子供のように、レースが楽しみになった。成功のイメージが自然にわいた。そうなれば、もう大丈夫なんです』
 成功のイメージが自然にわいた。よいイメージ、うまくいったイメージを浮かべると、それが実現するということですね。」
「それとこんなことも言ってます。
  『「力を入れる」のではなく、「力を動かす」。レース中、手の指先がピンと伸びることはありません。指の力を抜くことが、八割の気持ちで十割以上の力を出すコツかもしれません。最後の直線は、流しているように受け取られがちですが、リラックスした滑りは、そう見えるのです』
指の力をぬく、リラックス、それが大事みたいですね。」
「プレッシャーを克服するのにもうひとつ大事なことがあると言っています。
『土台を作ってくれたのは、周囲で僕を支えてくれた方々です。会社では.』と色んな人が支えてくれたから、金メダルがとれたんだって、言ってます。
『「きのうも聞いたよ」と口答えしながら、母の喜びが身にしみます。19日は父の命日でした。帯広に帰ってから仏壇にきちんと報告しようと思い、まだ、天国の父とは話をしていません』
 いろいろな人に支えられてはじめて、困難なことを克服してゆけるんですね」

 b.ロサンゼルスオリンピック金メダリスト具志堅幸司選手の談話(「万物創世記、「催眠」、1998年10月27日放映、テレビ朝日)

 『団体戦が終わったとき具志堅幸司は個人総合5位でした。選手村からUCLAのポ−リーパビリオンまで、バスで揺られていくんです。約40分あるんです。そのバスの中で、今日はどんな試合をしようかと、イメージトレーニングをやってみたんですね。そうすると、心臓はドキドキ、口からでるんじゃないかって思うほどドキドキして手は汗ばんで、うまくいったんですね。そして、優勝している像が見えたんです。涙が流れてきましてね、あれ、これバスの中じゃないか、今からはじまるのに喜んじゃだめだ、まだ5位だと。3回涙を流しました。それで、3回目にバスの中で見た光景と現実とがまるっきりいっしょだったんです。あれ、これどこかでみた光景だ。そうだバスの中で見た光景だって』

c.実業団野球チームのストレスマネジメントの実際(山中寛、1998)
 オリンピックに出場するほどのチームがやっているストレスマネジメントの実際が紹介されている。「イメージ呼吸法」「漸進性弛緩法」が紹介されているので、わかりやすい。

C導入のまとめ

オリンピック選手の談話やビデオを見てもらったあと、感想を言ってもらっても良い。「オリンピック選手は特別で、自分達にはできない」という意見があれば、山中寛(1998)のスエーデンの学校での取り組み、鹿児島の中学校での取り組みの実際をビデオで見てもらう。また、山中・冨永(1999)には、ストレスマネジメント技法が具体的に紹介されている。
 『さっき、みんなが話してくれたプレッシャーの克服法に、「お風呂にはいる」「マンガを読む」っていうのがありましたが、あれは、心と身体がほっとする。リラックスするっていうことですよね。でも、お風呂を試合場にもっていくことできませんよね。また、マンガを学校にもってきてはおこられますよね。だから、いつでも、どこでも、簡単にリラックスできる方法があるといいですよね。先生は、オリンピック選手がやっているリラックス法を知っているんです。やってみますか。どんなんだろうって思うよね。だれかモデルになってくれるお友だちいますか』

(2)導入例2 人間関係
@心がほっとすることばとストレスを感じることばとその対処
 「家族から、友だちから、先生から、心がほっとすることば、ストレスを感じることば」「ストレスを感じたときにどんなことをする?」と小さい用紙に各々書いてもらう。後でグループで話し合うことを予告する。思い浮かばない人は書かなくてもいいことを強調する。5分ほど時間をとりグループごとに発表してもらう。このとき、子どもからでた意見を尊重し、コメントを付け加えるとよい。例えば、ストレス対処として「ねる」ということがだされたら、睡眠の大切さを話し、翌日気分が切り替えられるとプラスの暗示を付け加える。ふざけているようなせりふが、意外と大切なことがある。また、親から「勉強しなさい!まだマンガ読んでいるの!」ということには、子どものためを思ったことばかけが子どものやる気をなくさせる例を話し、親のイライラの理解や親の身になることも求める。すなわち、傷つけの仕組みを子どもたちに学んでもらうのある。自分の行為と釣り合わない叱られ方は、子どもが全て悪いのではなく、親のストレスのはけ口になっていることがあるという仕組みを伝える。例えば、小さい頃おもちゃを散らかして、殴られるほどに叱られた例などをあげる。また、対処に焦点をあて、人に相談すること(ソーシャルサポート)、マイナスのことばの意味を考えること(問題焦点型対処)、リラックスや気分転換(情動焦点型対処)を整理して伝える(Lazarus and Folkman,1984)。

A導入のまとめ
『マイナスのことばかけに出合うと人はどのように反応しますか?攻撃と閉じこもりです。でも、そのどちらも適切ではありません。攻撃し続けると相手も戦わないといけないからです。閉じこもりは、自分の主張を押し込めることになります。いやなことばに出合ったら怒るのは自然なことです。でも、大切なことは、落ち着いて主張するということそのためにも、落ち着くことが必要です。その方法を身につけると、試験や試合といったプレッシャーに出合ったときにも使えます。先生はオリンピック選手がやっている気持ちを落ち着ける方法を知っています。いまからやりましょう』

(3)実施時間
ストレスマネジメント授業は、最低2コマはほしい。1時間目は導入に時間を割き、後半、体験ワークをいれる。2時間目は、体験ワークを中心に行う。そして、継続するためには、朝の学活で行うとよい。しかし、毎日ではなく、週に1回程度としたほうがいい。毎日やると、「やらされている」と思いがちになるからである。また、やりたくない子にとっては毎日は苦痛だろう。また、ひとりでできるようになることが目標であるから、毎日やらないほうがいいのである。教師は熱心なので、ついつい、いいことは毎日やろうと思いがちだが、それは逆効果である。しかし、子どもたちから、「やってほしい」という声がたくさんあがれば、それに応えた方がいいだろうし、試験や試合の直前には、やってみるといい。

2) 実施上の配慮事項
ストレスマネジメント教育を実践するとき、少数だが子どもの否定的な反応に出合う。否定的な反応を示す子どもこそ、ストレスを溜め込んでいる子どもであり、最もケアを要することを忘れてはならない。だから、否定的な反応を示す子どもを、安易に叱責すれば、ストレスマネジメント教育の本質を理解していないことになる。また、保護者の反応、他の教師の反応も重要になってくる。予想される子どもや保護者の反応に対する対応の仕方について述べたい。

(1)参加しない子
 参加しない子には2つのタイプがある。寝たふりをして参加しないタイプと、参加しながらふざけて邪魔をするタイプである。寝たふりをして参加しない子に、無理に、課題動作を強制してはならない。寝たふりをしていても、周りの子どもたちの反応をうかがっているのである。臆病なのかもしれないし、人間関係に不信が募っているのかもしれない。次に、ふざけるタイプの子どもも、ストレスを溜め込んでいる。躁的にしか他者とかかわれないのである。ふざけには、滑稽な踊りをする、相手をくすぐる、首を絞める、つつくなどがある。そのようなかかわりは、子どもたちにとっては、日常的なのである。だからこそ、このかかわり方が変化してゆくことが、日常生活を変化させる基になる。対応としては、「相手の友だちが、しっかりとリラックス体験を感じられるかな?」と強いメッセージを送ることも必要である。その時に、誤ったかかわりの例を示しながら、相手がリラックス体験ができるようにしっかり援助することを生徒に任せるのである。

(2)強制しない
こういった授業で大切なことは、「教師は決して子どもに強制してはいけない」ということである。子どもの中には、力を抜けない子がいることを知ってほしい。力を抜いてはいけない子といった方が正確である。家庭環境がつらすぎる子どもを想像してほしい。学校ではしゃぎ回っているか、「うつ」に沈んでいる。はしゃぎまわっている子どもは、はしゃぎまわることで、苦痛を散らしているのである。はしゃぎまわるというのは、身体を緊張させたり絶えず動かしていることである。もし、力を抜いてふっと自分をみつめると、恐い嫌なものが身体の奥底から浮かび上がってくる。それは想像を絶するほどの恐怖である。だから、力を抜いてはいけない子がまれにいる。そういった子が、はしゃぐことで人に迷惑をかけるのなら、それは制止する。しかし、それ以上に、リラクセイション体験を強要してはいけない。もし、教室から出ていこうとすれば、「しなくていいんだよ。でも君が教室からいなくなると先生も心配だから、教室にいて、見ているだけにしておいてくれないか」と言う。そして、その後、どんなところがしたくなかったのか、個別に聴いてあげるのがいい。そういった子どもこそ、もっともストレスマネジメント教育を必要としている子どもであり、その課題を受け入れるには、学校が安全な世界であることが、少しずつ実感してゆくことが必要である。

(3)「宗教と違うの?」
 子どもから「変な宗教と違う!ミニ宗教だ」という発言がよくみられる。教師は「ミニ宗教といううわさがあるようですが、これは宗教ではありません。みんなが、勉強に集中できるような、試合や試験であがらないようなトレーニングです」ときっぱりと伝える。教師は毅然とした態度で子どもに伝えることが大切である。
 保護者からもごくまれだが「宗教ではないですか」という疑問があがることがある。保護者の危惧に対しても、宗教でないとの説明をするが、保護者の中には、自律訓練のように「気持ちが落ち着いています」と頭の中で唱えること自体が認められないという宗教を信仰している人もある。事前に、学級通信で、取り組みの概要を掲載し、自由な意見を求めるようにしておくとよい。

 (4)「催眠だ!」
「これは、催眠をヒントにし、催眠からうまれたリラックス法であり、イメージ法です。しかし、催眠ではありません。でも、催眠をみんな誤解してますね。催眠というと、みんなは、TVのショーやさせられると思うでしょうが、オリンピック選手がやっているように、自分で自分をコントロールするためや、医学では、治療にも催眠は使われています。」

 (5)「マインドコントロールだ!オウムだ」
「なぜ、あんな立派な大学を卒業した人が、あんな悪いこと、非人間的なことをしたのか考えたことがありますか?それは、修行によって、心地よい体験をしたんですね。勉強では体験できないような、心地よい体験です。でも、それは特別なことではなくて、ある手続きをとれば、誰もが体験できる自然な現象なんです。しかし、それを、シバ神の、アサハラのお陰である、とやったのです。みなさんは、自然な癒しを体験しておくと、そういったことが特別なことではないことを身体で知ることができるでしょう」

 (6)まとめ
 内面に向かいたい人は内面に向かえ、内面に向かいたくない人は運動として誤魔化せる漸進性弛緩法や動作法がいいかもしれない。確かな動きには現実感がある。問題を抱える子どもが多いクラスほど、内面に向き合う自律訓練法や呼吸法からの導入は、慎重を期する方がいい。しかし、ストレスマネジメント授業を行うと、日頃溜まっているストレスや心の闇がごく一部の子どもにでてくる。これまでの実践でも、それまで不満を言えなかった子どもが攻撃的になったり、身体を訴えて保健室登校になったりした事例がある。しかし、教師の対応が迅速で、保健室登校になった事例も、クラスの取り組みですぐに教室に復帰できた。そういった過程は、必ず起こると考えていた方がいい。しかし、それは、心の闇をだそうとしてだすのとは決定的に異なる。心の光を膨らまそうと意図している中で、心の闇がでてくるのだから、必ず回復できるひとつの過程である。しかし、教師が子どもたちの苦しみ悲しみを見ようとしなければ、こうした回復が損なわれることがある。

文献
Herman, J.L.(1992) Trauma and Recovery. Basic books HarperCollinsPublishers 中井久夫訳  「心的外傷と回復」1995 みすず書房
心の教育緊急会議(1998)「心の教育の充実に向けて」 兵庫県教育委員会・神戸市教育委 員会
國分康孝(1992)構成的グループ・エンカウンター 誠信書房
Lazarus and Folkman (1984) Stress, Appraisal, and Coping. Springer Publishing
Company,Inc.,New York 本明寛・春木豊・織田正美訳「ストレスの心理学−認知的評価 と対処の研究」実務教育出版
盛弘仁・盛恵子(1998) バオバブと砂漠 明石書店
成瀬悟策(
1995) 臨床動作学基礎 学苑社
Sifneos,P.E.(1973)The prevalence of 'alexithymic' characteristics in psychosomaic patients.  Psychotherapy and Psychosomatic, 22:255-262
竹中晃二(1998) 子どものためのストレスマネジメント教育 北大路書房
冨永良喜・山中寛(
1999) 動作とイメージによるストレスマネジメント教育−展開編   北大路書房
冨永良喜(
1997)阪神大震災直後と1年後の被災者への心のケア ストレス科学 11,56-61
冨永良喜(1998)予防的・開発的教育相談(心の授業)の進め方 兵庫教育 50,12-16
上地安昭(1998) 「トライやる・ウィーク」は生徒の心をどう変えたか-先行実施7校  700名 の調査結果から 兵庫教育 571,10-15
山中寛(1998) 学校におけるストレスマネジメント教育(ビデオ) 南日本放送制作
山中寛・冨永良喜(
1999) 動作とイメージによるストレスマネジメント教育−基礎編   北大路書房
山中寛・冨永良喜(
1998) 心を育むストレスマネジメント技法(ビデオ) 南日本放送制作