揮毫・遺書・楽譜

「思いに邪なし − 」
柏陵記念館所蔵の、芦田均(柏原中・三回卒)の揮毫である。
初めて記念館を訪れた者は、そこで思わぬ名前と遭遇する。
特攻隊の生みの親の大西瀧治郎(第九回卒)の遺書は、
現代の私達に何を語りかけているだろうか?


芦田均の揮毫
芦田均は、本校卒業後も柏陵同窓会東京支部長を務めるなど、
母校の発展のために支援と助力を惜しまなかった。
この揮毫は平成4年(1992)、憲政記念館で開催された
「戦後政治と四人の宰相特別展示」にも出展された。


宣誓簿(柏原中学校)
入学時に校規を守り、学業に励むことを宣誓させた。
後に文部大臣を務めた有田喜一(18回 卒)の名前が見える。


大西瀧治郎の遺書
海軍中将だった大西は、終戦の翌日、昭和20年(1945)8月16日、
「吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす」と遺書を残して自決した。


昭和27年(1952)、兵庫県立柏原高等学枚校歌が制定された。
作詞・富田砕花、作曲・山田耕筰。

本校教諭(当時)橋本喬雄氏は、『柏高新闇』に次の手記を寄せている。
「そしてついに、わが国音楽界の泰斗山田氏の邸宅についた。師の作曲
になる歌曲は私も数多く親しんできていたが、今回のように、氏の体温さえ
もつたわってきそうな身近で、氏の姿に、声に接することができるのは楽し
いような恐ろし いような気さえした。すっかりかたくなって玄関をはいったら、
その頃はやりはじめていたパチンコの機械が来客用にで あろうか一台置い
てあった。いかにも庶民的なとりあわせが私の心をいくらかほぐしてくれた
ことを思い出す。(中略) 氏は私がひくピアノのそばでしきりに『いいだろう』
と自讃 の言葉をくりかえされた。会心の作にちがいないと思った。
注意を承ったりしているうちに氏は『君がいてくれるなら安心だ』ともおっしゃった。
見も知らぬところへ楽譜だけ送るのとくらべて安心だというお気持ちであろう。
(中略)山田氏はすでにいまさず、しかしこの校歌は七十年の伝統を誇る
名門柏原高等学校の生徒によって幾千代代かけてうたいつがれるのである。」
(柏高新聞・第100号・昭和41年10月1日号・橋本喬雄「緊張…そして感動」より)


富田砕花
昭和28年(1953)9月、校歌記念式にて。


校歌草稿(富田砕花作詞)
兵庫の詩人・富田砕花は、昭和26年(1951)夏に校歌の依頼を受けてから、
柏原の地を3 回訪れたという。詩人の直感をとらえたのは、校歌冒頭にある
ように霧の光景だった。脱稿 は翌27年(1952)1月。赤字の訂正は「この歌詞
は三節から成り立っているが、二節単位で字脚があうように訂正せよ」という
山田耕筰の注意にもとづくもの。草稿では、1番「さみどり匂ふすがたこそ」
の初出は、「緑もぞ濃きすがたこそ」であった。


百年の青春へ