「命の大切さ」の教育を
兵庫教育大学長 梶田 叡一


与えられた命を生きる私
小さな子どもの命が無惨にも奪われる事件や事故が続く。家庭でも学校でも,何とか子ども達が無事に大きくなっていってほしいと,祈るような気持ちであろう。勉強が出来るかどうかとか,スポーツその他の得意な面が伸びるかどうかなど,それにくらべたら大したことではない。ともかく,何事もなく毎日を送ってくれ,大人になる日を迎えてくれさえしたらそれでいい,という気にもなるのではないだろうか。
このためにも,子ども達に自分の命の大切さを改めて言い聞かせたくなる。何事に付け注意深くあること,慎重であること,を強調したくなる。それと同時に,いろいろなことが上手く行かなかったり失敗に終わったりしたとしても,絶望したり自暴自棄になったりしないよう,日頃から口が酸っぱくなるほど言い聞かせておきたくもなる。
「命の大切さ」を認識させる第一歩は,与えられた命を自分自身が生きている,という事実を自覚させることである。そして,その自覚を基盤に時々刻々を大事に過ごす,という態度や習慣を育てていくことである。これは自分自身を,呼吸し,飲食し,排泄し,新陳代謝しつつ機能していく一個の生命体として認識させる,ということでもある。そして同時に,自分自身が誕生から始まって,自分という意識を持ち,成長して成人になり,歳を重ねて老齢となり,死を迎える,という人生を辿っていく存在であることを自覚させることでもある。

周囲の誰もが固有の命を生きている
そうした自己認識を土台として,周囲の友達も,親を初め家族の人達も,学校の先生達も,知り合いの誰彼も,さらには街ですれ違う人達も,それぞれが自分自身の掛け替えの無い命を生きているのだ,ということに気付かせたい。人間誰しもが,それぞれ固有の命を与えられ,その命を自分なりに生きていって,誕生から死までの人生を独自固有の形で辿りつつある,という認識を深めさせたい。
さらにいえば,掛け替えの無い命を生きる人同士が出会うからこそ,どういう人との出会いも<一期一会>であるという認識を持たせたいし,親子や師弟や友人といった形でご縁のある人との持続的な人間関係が出来ているということを,運命的な絆なり紐帯として大事にする姿勢も育てたい。
そして,組織とか社会,世間とか世の中についての認識を,無機質で実体的なものとしてではなく,一人ひとりが懸命に自分の命を生きている人達同士の手の繋ぎ合いの姿の具現として,有機的で人間臭さに溢れたものとして,認識させたいものである。そうした基本認識に立つ時には,互いに他の人の命を大事にし合うことは当然として,一人ひとりが人間らしく生きることを互いに大事にし擁護していこうという真の人間尊重の感覚も育っていくはずである。また,他の人を「自分自身にとってどう役立つか」という視点から見るのではなく,「自分自身が他の人のためにどう役立つか」という視点から見ることが出来るようにもなるであろう。大乗仏教の強調してきた「菩薩道」も,アシジのフランシスコの「我を神の平和の道具になしたまえ」という祈りも,こうした基本的な自他認識が土台にあることは,改めて言うまでもない。

命の海の中で保たれている自分自身の命
人は誰しも掛け替えの無い命を生きているのだ,という自他認識,社会認識を延長していけば,自分自身の日常目にする花も木も,動物も虫も,また掛け替えの無い命を生きているという事実に気付くはずである。そして例えば我々の毎日の食事は,そうした動植物の命を自分自身の中に取り込む行為に他ならないことにも気付くのではないだろうか。
人間として生まれた以上,数多くの命を日々犠牲にすることによって自分自身の命を養っていかざるをえない,という自覚からは,生きとし生けるものに対する感謝の念が生まれて来るであろう。そして,必要な最小限の範囲を越えて動植物の命を奪わないこと,さらには動植物それぞれの命が十分な形で機能し継承されていくよう最大限の配慮を払うこと,といった当為(ゾルレン)が生まれてくるはずである。
環境保護の動きも,こうした多生命の共存繁栄という基本原則を踏まえて行われるべきであり,自己中心的な,あるいは人間中心的なものであってはならない。これをひるがえせば,私という命自体が,そして人間という種(命の群れの共同体)自体が,広大な「生命の海」を浮遊する一つのエレメントである,という認識にも行き着くはずである。そして,自分自身としても,人間としても,他の諸生命に対して,いささかの思い上がりも自分勝手も,本来許されないのだ,という基本認識に行き着くのではないだろうか。

以上に述べてきたような自覚と認識を,各自の実感世界に深く根ざす形で育てていくのが,「命の大切さ」の教育のあるべき姿であろう。これこそ,教師各自が,あらゆる学習指導の場を通じて工夫し実践していくべき人間教育の基本課題ではないだろうか。