「命の大切さ」は人としての生き方そのもの
東京大学名誉教授 養老 孟司


1 「命の大切さ」と都市社会
「命の大切さ」といった問題は、現代社会と深い関係がある。現代社会は都市社会、つまり人間の作ったものしかない、意識による世界である。人間の意識はものを同じにしていく働きを持つので、都市化が進めば単調化し多様性を認めない社会となる。
「命の大切さ」といった時に、それによって子どもの行動が影響を受けるかどうかが一番大きな問題となるが、多様性を認めない「都会」の人の考え方では、「かけがえのない命」「命の大切さ」という言葉は、空(カラ)の言葉にしか聞こえない。

2 「命の大切さ」の難しさ
根本的には、「命を大切にする」というのは言葉にするときれいだけれど、結構難しいことである。なぜなら死は人間が一番見たがらないものだからである。例えばインドのガンジス川では死体が流れているが、人は死んだら必ず死体になるということ、自分もいずれそうなることをしっかりと目を背けずにみること、つまり自分自身を直視しなければならない。

3 一つひとつがかけがえのない存在
解剖学をやっていたが、死体という言葉は一度も使ったことがない。多い時には50人並んでいることもあるが、それらを死体として一括することにものすごい違和感がある。死んでいてもかけがえがない。全員が別々の人で、名前があって、一人ひとりみんな状況が違う。一人ひとり違うことに気がつくのは、言葉ではなくて感覚である。感覚の世界は一元化できないのに一括してまとめてしまう考え方が、命を大切にするということに最も反する。

4 多様性との出会いを大切にする
「命の大切さ」ということを子どもに直接説くよりは、例えば虫捕りを子どもに勝手にやらせてみる。だんだんいろんな虫がいることに子どもたちは気づいてくる。いろんな虫がいるという「生物の多様性」に気づかせるようにする。感覚でとらえられるものはみんな違うものであるということを、子どもたちに「教える」というより、どのように「身につけさせる」かを考える必要がある。

5 死の不可逆性を教える
カッターナイフを用いた殺人事件を考えると人が人を殺すのではなく、カッターナイフが人を殺すのである。我々が教えないといけないのは「カッターナイフに人を殺す権利なんてない」ということ。カッターナイフは単純なつくりで簡単につくることも壊すこともできる。人間はそうはいかない。生きている人を殺したら二度とつくることはできない。壊してしまったら取り返しがつかない。その不可逆性を教えることが必要である。命の大切さはそこにある。

6 生きている者にとっての死の意味
人が死ぬということがどういうことかと考えた時に、ほとんどの人は自分が死ぬことばかり考えているが、実は死んだ人ではなく生きている人に非常に大きな影響がある。これは「命の大切さ」を教えていく時に留意すべき点である。
幼い頃の私は挨拶が苦手な子どもだった。四歳の時に父親の死を経験したが、その時誰かに「お父さんにさようならって言いなさい」と言われた私は声が出せず何も言えなかった。その時のことと人に挨拶できないことが関係があるのではないかと気づいた途端、私の中で「父親が死んだ」ことを受け入れることができた。普通人は自分が死ぬのは、たった一つのできごとだと思っているが、実はそうではない。ある人の行為がいろんな影響を及ぼすように、死ぬことも人によっていろんな受け取り方をされる。死の話や命の大切さというのは人生そのものである。

7 「命の大切さ」は人としての生き方そのもの
教員自身が「命の大切さ」をどう思うかということが一番大事である。「命の大切さ」というのは、人としての生き方そのものである。教員自身が日頃どう生きているか、自分がどう生きているかを問いかけること、そのこと自体が命の大切さである。命の大切さの教育は、教員自身がいきいきと生きていないと意味がない。