いのちの大切さ
東京大学名誉教授 養老 孟司


いのちの大切さ,と人々はいう。私はいのちという言葉を使わない。代わりに「生きもの」という。生きもののほうが具体的で,なにを指すか,はっきりしている。いのちという言葉はもっと広い意味を持っていて,いのちの源というように,生きている活力のようなものを含んでも使われる。文部科学省が「生きる力」といったのも,いのちと関係するのかもしれない。

私がこの言葉を使わないのは,この言葉が自分の議論に適切ではないと感じるからである。いのちは概念的な言葉で,概念を大切にするのは危険である。「生きものを大切に」といえば,具体的だからすぐに反論が出るであろう。そんなこといっても,人はウシを食べ,ニワトリを食べるじゃないか。反論が出るからこそ,生きものと表現したほうがいい。いのちと概念的に表現すると,そこをごまかすことになりやすい。でもいまはそこをごまかして済む時代ではない。生きものが大切だということを,子どもにきちんと教えられるようでなければ,「いのちを大切に」などといえない。

われわれはウシを殺して食べ,ニワトリを殺して食べる。それどころではない。日本人は魚を好んで食べる。それが健康食だというので,いまや欧米人も魚を多く食べはじめている。日本の商社よりも,ノルウェーの会社のほうが,魚を高く買い付ける。そういう記事が新聞に出る。マグロは絶滅に瀕しているという。将来マグロの絶滅は日本人のせいにされるであろう。

いのちを大切に,と呑気にいっている段階ではない。生きものを大切にしなければならないのである。ところがそういうと,昆虫採集は残酷だ,禁止だという。困ったものである。こういう目立たない生きものは,捕まえて調べていなければ,いなくなったのかどうかすら,わからないではないか。生きものを大切にするには,生きものについて,よく知らなければならないのである。ウシを飼い,ニワトリを飼い,魚について知らなければならない。沖合いで網を入れ,魚を取る。魚を食べている人たちが,魚ではないどれだけの生きものが,網にかかって殺されているか,ご存知であろうか。それでも人々は「いのちを大切に」という。それをいっておけば,あとは私のせいじゃない。そう思っているのではないか。そう疑う私は,意地が悪すぎるのであろうか。

見えないところに,どれだけの生きものがいるか。それをお考えになったことがあるだろうか。考えているはずがない。私はそう思う。見えない世界の生きものについて,考えたことがあるなら,日本中がこれだけコンクリート詰めになるはずがない。どれだけのミミズを殺し,モグラの住居を奪い,セミやオケラの世界を潰しているか。そういう目に見える生き物がじつは問題なのではない。土中の細菌,カビ,菌類の世界について,われわれはほとんどなにも知らないといって過言ではなかろう。その土に化学肥料をまき,除草剤をまき,殺虫剤をまき,挙句の果てにコンクリート詰めにする。それで「いのちを大切に」という。そりゃ聞こえませんは。

いのちを大切にしていないのは,子どもではなく,大人である。子どもはそれに影響されているだけである。その子どもが三十万円出すから,母親を殺してくれと頼む。頼むほうも頼むほうだが,引き受けるほうも引き受けるほうである。大人の鑑ですな。本気で考えると,背筋が寒くなる。国土の一割をゴルフ場にしようとしたのはだれか。ホリエモンを生み出したのはだれか。金さえあれば,できないことはない。そう思わせたのは,だれか。少なくとも子どもに責任がないことは明らかであろう。

いのちの大切さ,と聞くたびに,じつは腹が立つ。自分がやってもいないことを,標語にするんじゃない。この問題を解決するには,どうすればいいか。モノに即して具体的にいうなら,答えは簡単である。世界が石油切れになればいいのである。石油が切れれば,物流が不自由になる。物流が不自由になれば,自給自足しかない。地産地消をしようと思ったとたんに,生きものの大切さがわかるであろう。工場による分業は,運搬の費用が安くつくから可能なのである。物流が高価になれば,安くて重いものは運べなくなる。相対的に値上がりがひどいからである。食料はその典型であろう。それなら人は食料のあるほうに移動するしかない。食料とはなにか。植物を含めた「生きもの」ではないか。その生きものが栄えている土地こそ,食料が豊かな土地である。

都会の人が生きものを大切にしなくなるのは,一種の必然である。頭で考えることしかしないからである。頭で考えること,つまり意識には,どれだけの歴史があるか。人類が現在のような意識を持ってから,たかだか五万年であろう。それに対して,生きものの歴史は,多細胞の生物が生じてから五億年以上になるはずである。それなら意識なんて,とんでもない新参者である。新参者に偉そうなことが可能なのは,石油エネルギーがタダ同然の値段で使えるあいだに過ぎない。

個人的には,まず田舎に行くことであろう。いまは田舎が田舎ではない。それなら頭のなかに田舎を取り戻すことである。そんな説教をしなくたって,じつはだれでもわかっていることであろう。身体を使って自然のなかで働けば,外からのエネルギーなしに,人にはどの程度のことが可能か,それがわかるはずである。それを体験すれば,人々はいまよりはるかに謙虚になるであろう。それをしないのは,怠けているだけのことである。怠けることを続けるなら,石油切れを待つしかない。