「生きる」在りようから考える
京都大学大学院教育学研究科助教授 皆藤 章


人はみな,「可能性」を生きている。たとえ,生物学的にみて,長ずるにつれ衰え死に向かう存在であるとしても,人は機能のみにて生きるのではない。ここで可能性と言うとき,ライフサイクルのさまざまなステージでその内容は異なってくるという考えもあるだろう。すなわち,子ども時代は子どもなりの可能性があり,おとなになればそれなりの可能性があり,老いればまたそれなりの可能性がある,といった具合である。たしかに,80歳になれば子ども時代に可能であったたくさんのことは,もはや実行不可能である。100mを全力で走ることなどできはしない。それでもわたしは,老いても100mを全力で走ることはできると考えている。実際にそれが可能かどうかという問題ではなく,100mを全力で走った体験そのものは老いの内に「実在するrealize」と考えるのである。

このようにみると,老いの内なる可能性はすばらしい。老いはライフサイクルのほとんどのステージを生きていることに気づかされる。老いの可能性は体験の実在性にあるのである。老いの内には,人間の営みのほとんどが体験として実在している。そこには当然のこととして,命の大切さの体験も実在している。この可能性を活かすためには,それをいかに語れるかが重要である。そして,それをいかに実感をもって聴けるかが重要である。そのためのプログラムが必要になる。まずは,子どもが老いと出会う機会が必要ではないだろうか。たとえば,子どもたちと80歳を生きる人たちが,ひとときを共に過ごすことができるようなプログラムである。そのとき,そうしたプログラムはさりげなく進行し舞台を支えるものであってほしい。プログラムが前面に出ると,子どもから自発的,主体的に学ぶ機会を奪ってしまうことに繋がりかねないからである。

それでは子どもの可能性とはどのようなものであろうか。事例をひとつ(『生命ある限り』E.キューブラー・ロス著,産業図書)。精神科医キューブラー・ロスは,第二次世界大戦下,若き医学研修生として戦地に赴いていた。彼女は思っていた。どうして世界は,この世を破滅に導こうとするヒトラーを生んだのであろうか,と。そして彼女は,ある戦場でひとりのユダヤの少女に出会った。その少女の家族は全員,ナチスによってガス室に送られていった。その少女だけが奇跡的に助かったのである。そして少女は,ドイツ軍の傷病兵の看護に献身的に生きていた。キューブラー・ロスはそのとき想ったという。戦争によって家族全員を殺されたこの少女はナチスを憎んで当然なのに,どうしてこのように献身的に看護ができるのだろうか,と。

たとえばここで,その少女は家族を殺されたことからも分かるように,命の大切さを知っていたからだ,などと説明したとしても,そのような説明は何の役にも立たない。さらにまた,これで命の大切さを教えたと思う教師がいるとしたら,ほんとうにどうかしている。命の大切さは,知的には理解できない。このようなことは,道徳教育の形骸化を想ってみるとき,その感をいっそう強くする。命の大切さは子どもの実感からこそ生まれてくるものであって,知的に理解するようなことでは意味がない。「ひとりの人間の命は地球より重い」といった有名なことばがあるが,現代の子どもにこのことばで命の大切さを教えようとしても無駄であろう。子どもはこれをひとつの名言としてしか理解しないのではなかろうか。このことばが実感をともなって体験されるような在りようは,教育のなかでいかにしてプログラムできるのだろうか。

さて,先の話に戻って,キューブラー・ロスはここから何を学んだのであろうか。自身の疑問にどのような応えを得たのであろうか。彼女はこう語っている。人間のこころには,世界を破滅に導くような潜在的なヒトラーも住んでいれば,貧困にあえぐ土地で死に逝こうとする人に生涯を捧げる献身的なマザーテレサも住んでいるのだ,と。わたしは,キューブラー・ロスのこの語りは彼女の実感をともなった体験であると思う。まさに生と死が隣り合わせに在る狭間でキューブラー・ロスがつかみ取ったひとつの人間知である。

ユング心理学の概念に「元型」というものがある。こころの深層において人間をある行動へと向かわせる様式を言う。この考えからみれば,キューブラー・ロスは人間の内には「ヒトラー元型」も在れば「マザーテレサ元型」も在ることを示唆したとも言える。

現代の教育においては,マザーテレサ元型が活性化するようなプログラムが必要ではないか。それが具体的にどのような内容になるのかは分からない。ただわたしは,教育に携わる者ひとりひとりが,子どもの内にはマザーテレサ元型が生きていることを,しっかりとこころに刻むことがまずもって大切であると思うのである。これは,ひとつの子どもの「可能性」と言える。わたしたちは,差別やいじめなどといった在りようでヒトラー元型がうごめく様相を日々痛恨の思いで体験している。この現代においてなお,マザーテレサ元型が生きる様相をいかに体験できるのか。世界一の長寿国であるこの国は,命の大切さを知る人たちの努力によって築き上げられたのだろうか。真の意味の命の大切さを知る営みはこれから始まるのではないだろうか。現代教育の至上の命題である。