2014年6月2日 更新


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学校紹介


姫商の歴史

(本校の同窓会である「琴陵会」のホームページからの再録です。90周年の記念にまとめられたものに加筆しております。)

創立90年が過ぎ、以前に藤本校長(姫路商業高校元校長)が、朝日新聞に記した人国記をもとに、少し振り返ってみました。以前に連載したものです。姫商の歴史と伝統にぜひ触れてみて下さい。

姫路市井ノ口、県立姫路商業高校は1911年(明治44年)に開校した。創立以来「姫商」と親しまれ、2000年3月、1万6850人目の卒業生を送り出した。2000年11月に創立90周年記念式典を挙行。ここに姫商90年の歴史を振り返る。

当時の市長堀音吉(故人)が「市の現状に即した商人の養成」をと商業高校学校創設を提案、姫路市北条口に私立姫路高等女学校を経営していた熊谷薫郎(故人)が女学校の校舎、敷地を提供したのが始まり。熊谷が初代校長となった。1回生の合格は110人。「天組」「地組」の2クラスに分けられた。先生は校長のほか松井重太郎、神村次三郎、神崎章彦の4人だった。開校時から英語の授業があった。2年目から日ノ本女学校のF・C・ブリックス(いずれも故人)が発音を担当した。校舎の北側に織物工場がありバタンバタンと機織りの音が授業中にも聞こえた。生徒は和服に角帯、前垂れ、腰に37ケタ、2尺(約70センチ)のそろばんをぶら下げて通学した。人々は、そのいでたちから「丁稚(でっち)学校」と呼び親しんだ。1回生の安井寛(故人)は同窓会誌「琴陵」に「日本で唯一の丁稚学校だ」と書いた。

創立当時の門

14年8月、校舎は姫路市福沢町の「船場」に移転した。旧校歌は29年に制定されたが、13年から17年まで国語の助教 をしていた高島秀吉(故人)が、応援歌「鷺城の雄姿」を作詞、生徒たちと肩を組んで歌った。高島は後に茨城県日立市長を五期務めた。創業80周年を迎える日本フエルト工業(姫路市城東町)3代目社長藤岡憲一(故人)は21年卒。創業時から株式会社で、オーナー制を敷かない企業だが実力を発揮し、ついにトップに立った。俳優藤岡琢也は一人息子。

第1回入学式

愛知ガラス会長中谷繁雄(73)=姫路市新在家=は22年卒。明治以来のガラス製品卸業。50年に株式会社として初代社長に。和服姿はすでにカーキー色の制服になっていた。「試験の結果は運動場で張り出され、先生が巻紙にした成績表を下位から広げた」。18歳でキリスト教徒になり、東京神学大学の評議員をつとめた。「古老の語り部です」と教会時代の思いでを執筆している。同級生の藤尾英二郎(故人)も同時期に信仰の道に入り、キリスト同信会の伝道者になった。

学籍簿

龍田紡績(姫路市延末)2代目社長龍田敬太郎(故人)も22年卒。姫路商工会議所会頭として、焼け野原となった姫路の戦後経済の複興に取り組み、今日の姿に盛り上げた。「綺麗ではないが一言一言に重みがあった。まさにリーダーの風格」と龍田を知る人は話す。姫商の校庭にテニスコートが2面あり庭球部に所属した。卒業後も会社や前会議所の中庭にアンツーカーのテニスコートを造りテニスを愛した。「関西マッチ界のドン」と言われ、姫路特産のマッチの販売を拡大した元大阪燐付販売社長野本卓二と、元関西学院大学教授土山喜一(いずれも故人)も龍田と同級生で庭球部だった。穂積綿行(姫路市南新在家)元社長穂積勝次郎(故人)も22年卒。剣道部で活躍した。綿業研究に打ち込み「姫路藩の人物群像」を著した。元姫路市会議議長井上藤雄も同級生。

校歌がない時代が続き河野通雄(故人、26年卒)が「白鷺城北緑濃し 仙雲かかり霊気満つ・・・」と作詞したのを教室で歌った。元国連大使柿坪正義(故人、加古川市出身)は27年卒。パキスタン、エジプト、スイス大使など外交官として活躍した。船場校舎があった琴綾公園に「学舎の跡」の碑文を残す。今月6月、国連人口賞を受賞した日本大学人口問題研究所名誉所長黒田俊夫(88)=東京都世田谷区玉川=も27年卒。厚生省人口問題研究所長などを歴任した。北京での国際人口学会での報告、国内での講演など忙しい日々だ。姫路市伊伝居出身。東京商科大学(一橋大)を目指した。「3年生から自転車通学をやめ、登下校を歩きながら代数や幾何の勉強をしていた」。同級の柿坪君の家に泊まったものです」日本鉱産(京都市)初代社長上月多喜雄(88)=大阪府吹田市千里丘中2丁目=28年卒。姫路市久長区出身。「校風は質実剛健そのものだった」。貨幣研究で全国に知られる。57年に姫路市で「貨幣大展覧会」を開き、3500年前の中国の貝貨幣など約1000点を披露した。銀行などの求めで講演を続ける。

初代学校長

第1回卒業式

創業の才は秀吉に学び、守成の識は家康に習う」とする「成功碑」。1917年(大正6年)10月28日、「船場校舎」で除幕した。2代目校長松村明敏(故人)が人生に成功する道を示そうと碑文の筆を執った。いまも「姫商精神」として受け継がれる「至誠を中軸とする創業と守成の精神」に通じる。開校以来の卒業生に、企業の創業者が多いのもその伝統がうかがえる。サントリーフーズ創業社長横山虎雄(故人)は29年卒。姫路燐寸会社会長福井寛治(86)=姫路市白浜町乙=は30年卒。柔道、器械体操を楽しみ、同級生の今田正明(86)=川崎市麻生区=らとラッパ部を創設した。成功碑を「予習・復習の碑」と自ら呼び、「経済原則であり人生哲学」とする。51年に創業。イタリアポプラを植林してマッチ軸の自給を目指した。「東海道53次」「城」シリーズを送り出しファンをつくった。同窓会「琴陵会」初代理事長の初井利吉(21年卒、元初井商店代表、故人)、姫商教諭を21年間務めた元姫路市教育長大江光次(故人)、元四日市大学教授中村萬治(84)=32年卒、姫路市岩端町=らと11年にわたって散々した資料を集め、82年に「姫商70年史」を発行した。琴綾会・現理事長の北浦商事社長法旨筆夫(71)=姫路市新在家本町=は43年卒。47年の創業に加わり、住友大阪セメント特約店でトップの販売力を誇る企業を支える。廃絶した姫路藩窯・東山焼の研究で知られる。茶道をたしなみ裏千家淡光会西播支部長を務める。「生徒たちは自信とプライドに満ちて、人生で1番楽しい時を過ごせた」という。校歌合唱で万年筆をタクトに指揮をした思い出がある。同級生たちと思い出集を作った。2000年の創立90周年に向けた取り組みに力を込める。バレーボール部で活躍した

校舎の東側に「創業之才可学之於秀吉公 守成之識可 之於家康公」の巨石碑が建つ

同級生の安井文栄堂代表安井淳=姫路市副中町=は主将、北川春男=姫路市四郷町=、濱田春夫=姫路市五軒邸2丁目、松浦利雄=松山市見沢=もバレーボール仲間。ハリマ共和物産会長津田二雄=八代東光寺町=は39年卒。69年に創業した。陸上の長距離選手を夢見たが、家業の金物店の手伝いが忙しく、「運動クラブを楽しむみんなを、うらめしそうに見ながら下校していた」。信仰心があつい家庭に育ち、新入社員に姫路・書写山円教寺で三泊四日の研修を続ける。ジャスコ創業者の一人柴田虎雄(71)=姫路市山吹1丁目=も43年卒。5年間を柔道部で過ごした。常務を経てウェルマート会長として店頭登録を果たし、播磨を中心に82店舗を展開し基礎を築いた。富士電気工業社長田町昌之=姫路市阿保甲は44年卒。60年に創業。省エネ型インバーターなど世界がしのぎを削る分野で活躍する。兵庫師範学校に進んだ後、兄の同社元取締役で姫路三洋電機販売を創業した拓也=34年卒・姫路市景福寺前町が勤める電気会社へ。ヒメプラ社長村角冨男=姫路市北条口は43年卒。材木店で働くうち、大阪で元積水樹脂専務竹嶋正幸(39年卒)に出会い、プラスチックを知った。飾磨郡夢前町の自宅から1時間かけて自転車通学した。男兄弟3人とも姫商。兄の村角行元社長は、34年卒、弟の日本プライボード社長三郎は、47年卒。加古川商工会議所副会頭、釜谷紙業会長釜谷定雄=加古川市加古川町粟津(43年卒)、同社社長國雄(45年卒)兄弟は、1890年からの家業の紙店を受け継ぎ、1951年に同社を起こした。

昭和設計相談役林唯夫(七一)=大阪府吹田市=は一九四四年(昭和一九年)卒。姫路市飾東町出身。同社創業に加わり県警本部新庁舎など高層ビルを手掛ける。元同社専務長野弘(六九)=大阪市堺市=は四五年卒。同じ朝来群生野町出身の社長に請われて六一年に電電公社から転職した。戦争最中「動員で農家の稲刈り、爆弾づくりの毎日だった」。みかしほ学園理事長水野昭二(七〇)=姫路市岡田=は四四年卒。「みかしほ」は旧校歌の歌詞から。保健所に勤め、五四年に「みかしほ食品研究所」を設立。調理を独学し五七年、県内初の料理学校を開く。全国調理師養成施設協会副理事長。専門調理師試験の出題などに当たり、テレビの料理番組に出演する。

葵交通会長宗行康夫(六九)=姫路市西今宿一丁目=は四五年卒。家業は材木商。買い出しにトラックを運転していた経験を生かし五三年、タクシー会社を設立した。姫路乗用自動車協同組合・初代理事長時代の六二年、共通チケット「姫協」をスタートさせた。「戦争中で、勉強できたのは半分。軍事教練、勤労動員がほとんどだった」。空襲で自宅が焼けたときに持ち出した姫商の草色ゲートルを大切に残す。本業のかたわら、他の分野で活躍する同窓が多い

神戸銀行元監査役今里幾次(七八)=姫路市飾磨区須加=は三六年卒。日本考古学協会会員。在学中から奈良・石舞台古墳調査の新聞記事を切り抜く考古学少年。三九年には姫路市辻井の縄文遺跡を発見。「播磨考古研究学」を著し、今里を先生と呼ぶ佐原眞・国立歴史民族博物館館長、春成秀翁。同館教授が編集した。九五年に「播磨古瓦の研究」を発行した。「本業がおろそか、と言われるのがイヤで銀行マンとしてひた走った」。元日本銀行前橋支店長岩宮重雄(七八)=大阪府岸和田市東ヶ丘町=も三六年卒。

県土木利用審査会長で、山陽不動産鑑定研究所会長辻正一(七六)=姫路市南新在家=は三八年卒。日本勧業銀行に勤め土地評価を担当していた。「より専門的な法律知識が必要」と慶応大学で学ぶ一方で五二年、同研究所を設立。不動産鑑定士制度が発足した六四年、真っ先に合格した。日本で初めて資料について論じる「賃料の研究」などを著す。カーキー色から青が勝る制服になったとしに入学「新しいものが好きで剣道、テニスをしたが所属は購買部」。陶芸家小峠秀夫(七七)も三八年卒。京都市東山区今熊野南日吉町に窯を開き、日展に入賞した。同級生の小峰元(本名・廣岡澄夫、故人)は、毎日新聞社時代の七三年、「アルキメデスは手を汚さない」で第十九回江戸川乱歩賞を受賞した。

元積水樹脂専務竹嶋正幸(七六)=大阪府箕面市新稲五丁目=は三九年卒。二部、一部上場と急成長させた立役者。加古川市から通学、珠算部の選手で活躍した。毎年開く同窓会の幹事役を引き受ける。積水時代から謡いに通じ、約二百二十ある曲のほとんどを吟じる。 陶芸家鍛冶淳美(七四)=飾磨郡夢前町菅生潤=は四一年卒。鍛冶屋に生まれ、父が起こした飼料店を手伝った。六五年、鍛冶屋にのこるふいごを使って「楽焼」を焼いた。瀬戸黒など桃山時代からの古陶に挑む。作品は姫商時代の仲間に贈り、「茶陶展」を開く。和歌山・根来寺滅亡後、姫路市で生産されたと伝えられる「書写塗」研究の第一人者。江戸時代初期に絶えたとされる「播磨かちん染め」研究にも力を入れる。元大阪府副知事大植金平(姫路市飾磨区亀山出身、故人)も四一年卒。通産省から転じた。姫商の仲間たちに、「大学へ行って外務大臣になる」と話す陸上選手だった。

増田皮革工業所社長増田茂幸(70)=姫路市四郷町上鈴=は四四年卒。兄妹三人とも「帳面がつけられるように」と姫商に進んだ。同社専務敏明(六九)は四五年卒。住宅関連会社を経営する照正(六六)は四九年卒。備前焼にあこがれた茂幸と敏明は八九年、工場内に登り窯を造り「宝鈴窯」を開いた。作品は同級生たちが買い求めた。「姫商では防空監視所で双眼鏡で敵機を監視していた」と二人。十人の主婦たちに作陶を教え、来年二月の十周年の窯だしに備える。「備前に魅せられた。構造を閉めようか」と思う二人だ。

小林松涛園会長小林一夫(七六)=姫路市青山二丁目=は四三年卒。茶道裏千家淡交会参事。古文書から秀吉が姫路城で茶会を催した事実を明らかにした。姫路藩主・酒井宗雅が茶道に一頭地を抜く存在であることも読みとり、九五年、「姫路藩主 茶人大名 酒井宗雅資料集」を発行した。茶室「壱庵」を解放して茶会を催し、台所で「お茶の懐石料理講習」も開く。「姫商で銃剣道をしていて負けた覚えがない」元東京地裁所長中村修三(故人)も四三年卒。

姫路城を守る会副会長横山忠雄(76)=姫路市西二階町=は1940年卒。「ふるさと城南ものがたり」などを著し、郷土史研究を続ける。「地味なことばかりしてきたが満足している」。戦時色が強まる姫商時代「出征家庭の稲刈りに汗を流していた」。神戸国際大学名誉教授長野大(71)=高砂市北浜町=は1944年卒。尼崎中央所長を務めた。「しらさぎ険友会」会長。「入学時の朝礼で横にオジサンのような5年生が並ぶのでこわかった。」剣道を習った父充孝(故人)は、終戦までの二十数年間、姫商の剣道師範を務め、「長野旗争奪剣道決勝大会」に名を残す。

姫路市教育委員長櫛橋勇(70)=姫路市伊伝居=は1945年卒。登校したら中央黒板に「昭和十六年十二月八日未明、大日本帝国海軍は、南太平洋において米海軍と交戦状態に入り」とあった。2年生だった。「高校時代一番楽しいのは修学旅行とクラブ活動。その瞬間からすべてが犠牲になった」。広島で原爆、「あの時死んでいたと思えば」と42年間の教員生活に取り組んだ。姫路西高校長で退職。1993年、同級生たちで「感想文集」を発行した。林好夫は「同窓会に思う」、黒田良孝は「転機となった十代の思いで」、岸本義生は「心の青春」をつづった。

1948年4月、5年制だった姫路商業学校は、学制改革で3年制の県立姫路商業高校となった。武庫川女子大学非常勤講師藤本俊和(64)=姫路市飾磨区構3丁目=は、入学4年目の1949年の年明け早々、男女共学の必要性から琴丘高校に、姫商高1年生として同居した。いす、机を担いで引っ越しした。校門には2校の校門板が並び、同じ教室に制服が違う生徒がいた。「フォークダンスがあって女生徒と手をつなぐ。質実剛健の姫商生の戸惑いは相当なものだった」。姫商の教頭、校長を八年間務めた。

母校の教壇に立つ同窓が続く。國光健一(53)=1964年卒▽峰昇平(47)=1970年卒▽塚本靖子(35)=1981年卒▽西田拓己(28)=1988年卒がいる。講師の大道吉和(66)=は49年卒。49年三月の卒業式は、姫路商業高校の最初で最後、旧制姫路商業学校の最後となり、廃校となった。人事院総裁中島忠能(65)=神奈川県鎌倉市鎌倉山一丁目=は1949年の旧姫商「併設中学」最後の卒業生。「卓球選手だった。戦場でも一番の腕前ですよ。向学心に燃える仲間が多かった」。母校での講演で、「自分の個性にあった職業を選び、よい友だち、先輩を大切に、前を向いて歩こう」と励ました。「人事院勧告」で知られ仕事。「公務員の採用から退職までを受け持つ」。61年、同窓会などが懸命の姫商「復活」運動を続け、姫商は13年ぶりに再スタートした。

宮本書店社長宮本義也(52)=姫路市北平野町、1964年卒=は新生姫商の1回生。入学試験は姫路東高校、入学式は荒川小学校、一学期の半分は姫路西高校で授業。グラウンドの石拾いの毎日だった。「学校造りをしながら、勉強やクラブ活動、文化活動だった」。一年生ばかりのバスケット部。「三年生がそろって勝てるようになった」。八五年、西播磨初の「郊外型書店」を開いた。

書家黒田賢一(50)=姫路市白浜町宇佐崎中=は1965年卒。今秋、国内の芸術展で最も権威がある日展のかな部門の審査員となった。会計畑の姫路職員時代に20回を超す日展入選歴がある。1984年に退職。全国を駆け回る多忙な毎日だ。上水流祥平(51)=姫路市飾磨区細江=も1965年卒。「琴陵会」副理事長。野球部の副主将で三塁手だった。「先輩がグラウンドづくりをしてくれた」。長男克昌(24)=は1991年卒。野球部で主将をつとめ、父と同じ三塁手。弁護士渡辺隆文(50)=大阪府豊中市上新田四丁目=は1966年卒。「私たちが入学してようやく三学年がそろったが、まだ学校造りしながらの高校生活だった」。バスケットボール部に所属した。大学在学中に公認会計士、後に司法試験も突破した。「世相を反映、離婚など女性を取り巻く事件が多くなっている」

日本イヌワシ研究会役員三谷康則(49)=飾磨郡夢前町塩田=は1967年卒。二メートルの羽をひろて悠然と飛ぶイヌワシを見つめて25年になる。「日本で三百羽しかいない。氷ノ山周辺に四羽いるが、住む環境が厳しくなっているのが心配」。藤原建装代表藤原良樹(49)=神埼郡神崎町粟賀=も1967年卒。野球部の左投手。鋭いけん制に自信を持っていた。父の仕事をもり立てる長男秀樹(25)、娘の亜紀(20)、美紀(20)も姫商。

三木まどか(25)=愛知県西加茂郡三好町=は1991年卒。1990年の日本陸上競技選手権女子百メートルで社会人相手に12秒02で優勝した。「三年生の高校総体(仙台市)で、ひざの故障を押して出場、優勝したのが一番の思い出」。今年、陸上部の女子が兵庫高校ジュニアで総合10連勝を果たすなどで「日本学校体育研究連合会」表彰された。「陸上の姫商」の伝統が息づいている。演劇部活躍も盛んで九六年卒の関口美佳(19)=神埼郡市川町出身=は劇団「青い森」に入団した。1983年、全国に先駆けて「情報科学科」が設置された。難関の通産省情報処理技術者試験で、在学中に二種、一種の合格者が相次ぎ進学を希望する生徒が増えている。

学校前にある四つ池の土手の整備がおこなわれた。運動場西側に植栽し、校章をかたちどった。

1992年

情報科学科10周年記念の年を迎える。記念講演として西之園晴夫先生の講演会を行った。イキイキハイスク−ルの事業が始まる。本校では、体育館で実際に生徒が仕入・販売実習するハイパ−マ−ケットを実施する。体育館に1クラス1店舗担当し、日用雑貨からアパレル・電気製品と多種類の商品を取り扱った。商品を体育館に納入し、販売日の前夜遅くまで藤本元校長が体育館の管理に自らされていたのが思い浮かぶ。当日は、賑わいを見せ全職員の協力で成功した。

1993年

前年に引き続き販売実習「ハイパ−マ−ケット」を実施した。バ−コ−ドを各商品につけて販売管理しようというテ−マをあげ、数店舗にパソコン(日立のB16)を設置した。そして、バ−コ−ドを読んで計算し、売上集計した。プログラムはBasicで作った簡素なものであった。前年同様、盛り上がったが近郊の大型ス−パ-の開店日と重なり、売上は下がった。

1994年

第3回のハイパ−マ−ケットをopenした。当年は今までのものに加え、野菜を播磨農業高校から仕入れ、販売した。盛況であった。しかし、近郊のス−パ-との価格競争で厳しさが生じた。利益をどの商品にもつけないで販売する中で価格をどう切り詰めるか大きな課題となった。このころからディスカウントショップの進出が続き、「価格破壊」を売り文句に、流通業界での価格競争が繰り広げられた。

1995年

価格競争の壁にぶつかり、マーケットを見直すことになった。イキイキハイスクールの事業として、本校の裏山の山道を整備してハイキングロ−ドを作ることをはじめた。これ以降現在もこの事業を継続している。部活動と共に進学指導に力を注ぎ、国公立大学に28名を送り出す。県下、全国ナンバーワンの商業高校を目指す。

1996年

体育館を建て直し、新しい体育館が完成した。竣工記念として、中京大学より体操部監督中山彰規先生ほか部員の方を招待して演技を披露願った。

1997年

コンピュ−タを更新し整備配置した。

1999年

少林寺拳法部が全国制覇達成。

2000年

少林寺拳法部が全国選抜で全国制覇達成。ソフトテニス部の中谷・澤田組がインターハイ2位となっている。

2001年

少林寺拳法部が全国選抜で全国制覇達成。

2002年

国公立合格者が商業科14名・情報科学科31名となる。姫商で初めて39回生商業科の衛藤日生が全商全種目1級合格を果たす。12月情報科学科のコンピュータを更新する。新しい情報科学科の時代を先駆け、田中情報科学科長がMACの導入を推進し、DTM・DTP・CADを学習する体制を確立。東芝姫路(ソフトテニス)に所属する本校40回生上嶋亜友美がアジア大会銀メダルを獲得。全日本総合選手権大会(皇后杯)国民体育大会に優勝。

2003年

情報科学科の古賀真矢子が情報科学科で初めて全商全種目1級合格を果たす。国公立合格者が商業科23名・情報科学科22名となる。11月情報科学科20周年記念事業を行う。東芝姫路(ソフトテニス)に所属する本校40回生上嶋亜友美が世界選手権大会銀メダルを獲得。国民体育大会に2年連続優勝を成し遂げている。また、現役部員もインターハイで団体3位入賞を果たしている。

2004年

この年より、2年生の希望者が自分たちで仕入れから販売を実習する「チャレンジショップ」を夏休みに開催した。

また、荒川小学校に、本校の3年生の生徒が行き、コンピュータの活用を教えにいく。小学生に自分たちが学んだことを教えることで、違った立場での学習を行う。

2004年から3年間、2008年から3年間の期間、知的財産教育についての研究校として、知的財産権についての学習を深めている。

2005年

本校卒業生(長岡千里)が、バンクーバで行われたオリンピックにボブスレーで出場した。

2006年

平成18年度から地域自律・民間活用型キャリア教育事業(経済産業省主催)の一環として、生徒のアイデアを発表して、企業が商品化する。商品開発を通してモノづくり、発想の大切さ、コミュニケーションについての学習を深めた。この年は、「ネスレ」の協力を得ることができた。

2007年

前述の商品開発は、この年からランドセルメーカの「セイバン」の協力を得る。ランドセルは、見本市で評判を得て、高島屋で生徒がアイデアを出したランドセルが販売された。

2008年

産業教育振興の援助を受けて、コミュニケーションの力が育成できるように、視聴覚室が整備できた。2つの大画面をスクリーンに表示して、また、教材を各机に配信してプレゼンテーションできる。

2009年

ICT教育の推進として、各教室に52型のディスプレイを設置して、各教室で、インターネットを見ることができて、また、ブルーレイの映像も見ることができるようになった。

2010年

ハングルの授業において、韓国で歌手として活躍しているパクジュニョンが来校して、国際交流を深めた、サンテレビでも取り上げられた。

11月、創立100周年記念式典を執り行った。



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